離脱

1955年4月4日 聖月曜日


聖週間が​始まりました。​カルワリオに​おける​救いの​完成を​目前に​しています。​このような​時に、​イエスが​どのような​方​法で​人類を​お救いに​なるかを​考えるのは、​時宜にかなった​ことだと​言えます。​土くれのように​卑しい​人間を、​筆舌に​尽くし難い​ほど愛する​主を​黙想するのです。

​ 母なる​教会は、​灰の​水曜日に、​「人よ、​おぼえよ、​汝は​塵であって、​また塵に​返る」1と​呼びかけ、​無に​等しい​私たちの​姿を​思い起こさせます。​生気に​満ちている​今の​肉体は​いつの​日か​朽ちてしまう。​歩みに​つれて​立ちの​ぼる​ほこり、​あるいは​「太陽の​光に​押しのけられ、​その熱に​解かされて、​霧のように​散らされてしまう」2存在、​これが​私たちです。

​キリストの​模範

 人間の​儚さを​ありのまま​思い出した​あとで、​今度は、​素晴らしい​現実に​目を​向けて​欲しいと​思います。​それは、​私たちを​支え、​神化してくださる​神の​偉大さの​ことです。​使徒の​言葉に​耳を​傾けましょう。​「あなたがたは、​わたしたちの​主イエス・キリストの​恵みを​知っています。​すなわち、​主は​豊かであったのに、​あなたが​たの​ために​貧しくなられた。​それは、​主の​貧しさに​よって、​あなたが​たが​豊かに​なる​ためだったのです」3。​師イエスの​模範に​落ちついて​注目すれば、​生涯に​わたって​黙想すべきテーマと、​具体的な​決心を​立ててより​一層寛大に​なる​ための​テーマを、​数多く​見つける​ことができるでしょう。​目標を​見失わないように​してください。​私たちは​イエス・キリストと​ひとつに​なるべきなのです。​すでに​ご存じのように、​主の​跡に​従う​私たちに​模範を​与える​ため、​自らを​貧しくして、​苦しまれました4。

聖なる​好奇心にかられて、​主が​どのような​仕方で​愛の​浪費とも​言える​ほどの​愛を​注いでくださったか、​考えたことが​あるでしょう。​これに​ついても、​聖パウロが​教えてくれます。​「キリストは、​神の​身分で​ありながら、​神と​等しい者である​ことに​固執しようとは​思わず、​かえって​自分を​無に​して、​僕の​身分に​なり、​人間と​同じ​者に​なられました」5。​これほどの​秘義を​前に​すれば、​驚いて​当然です。​感謝の​心で​多くの​ことを​学びとらなければなりません。​全能、​荘厳、​美その​ものであり、​偉大で​測り​知れない​豊かさと、​無限の​調和を​もつ​唯一の​神、​その​神が​人間に​仕える​ため、​キリストの​人性に​隠れておいでになる。​全能の​贖い主は、​人々が​近寄りやすいように、​自らの​光栄を​しばしの​間​お隠しに​なったのです。

​ 福音史家聖ヨハネは​次のように​述べています。​「神を​見た​者は​いない。​父の​ふところに​いる​独り子である​神、​この​方が​神を​示されたのである」6。​人間が​唖然と​するような​方​法で​主は​出現なさいました。​まず、​ベツレヘムで​生まれた​ばかりの​赤子と​して、​そののち近所の​子供たちと​全く​同じ​幼年時代を​過ごし、​しばしの​時を​経てから、​賢明で​利発な​若者の​姿で​神殿に​現れる。​そして​最後に、​群衆の​心を​とらえ、​熱狂させた、​愛深く​魅力的な​師と​して。

受肉された​神の​愛を​ほんの​わずか目に​するだけで、​神の​寛大さに​心打たれます。​数多くの、​卑しくて​利己的な​振舞いに​対して​痛悔の​心を​もてと​勧め、​優しく​導いてくださるのです。​自らを​低める​ことさえ​厭わない​キリストは、​私たちの​惨めさを​取り​除き、​神の​子、​キリストの​兄弟と​しての​尊厳まで​与えてくださいました。​それにも​かかわらず、​人間は​愚かにも​たびたび、​与えられた​数々の​賜物や​才能を​誇り、​時には、​他人を​支配する​手段に​してしまう。​比較的​うまく​やり遂げた​仕事の​功績を、まるで​自力に​よるかのように​考えてしまうのです。​「あなたを​ほかの​者たちよりも、​優れた​者としたのは、​だれです。​いったい​あなたの​持っている​もので、​いただかなかった​ものが​あるでしょうか。​もしいただいたのなら、​なぜいただかなかったような​顔を​して​高ぶるのですか」7。

​ 神が​自らを​空しくして​己を​捧げてくださった​ことを​考えると、​(私たちが​それぞれ自分の​状態を​黙想する​手掛かりと​して​話すのですが​)自負心や​自惚れと​いう​罪の​恐ろしさが​歴然と​してきます。​この​恐ろしい​罪に​負けると、​イエス・キリストの​模範とは​正反対の​状態に​陥ってしまいます。​ゆっくりと​考えてみてください。​キリストは​神でありながら​自らを​卑しい​者と​されました。​ところが、​自己愛で​膨れあがった​人間は、​汚れた​泥で​できている​ことを​認めようともしないで、​是が​非でも​高められる​ことを​望むのです。

 幼い頃、​金色の​雉を​贈られた​農夫の​話を​聞いた​ことがあります。​農夫は​その​贈り物に​ご満悦で、​どこで​飼おうかと​いろいろ​思案し、​優雅で​素晴らしい​鳥に​ふさわしい​場所を​物色しましたが、​なかなか​適当な​場所が​見つかりません。​結局、​鶏小屋に​入れる​ことになりました。​雌鶏たちは、​素晴らしい​新入りを​みて、​神に​出会ったかのように​驚嘆し、​その​周りを​駆け巡ります。​大騒ぎの​さなかに​食事を​知らせる​ベルが​鳴り、​飼い​主が​一握りの​麬を​投げ入れました。​すると、​皆の​賛嘆の​的に​なっていた​雉が​やにわに​駆け寄り、​貪るように​ついばみ​はじめました。​長時間の​空腹を​満た​したかったのです。​美の​化身のような​鳥が、​ごく​ありきたりの​鳥のように​餌を​ついばむ卑しい​姿を​みて、​囲い​場の​同居人たちは​すっかり​失望してしまい、​失墜した​偶像を​突き始め、​羽を​すっかり​抜き取った、と​いう​話です。​自己崇拝も​地に​落ちると​憐れを​もよおします。​特に​自らの​能力に​自惚れて、​自力を​称揚していればいる​ほど。

​ 日々の​生活に​役立つ具体的な​決心を​してください。​超自然的、​人間的能力は​正しく​活用する​ために​授かった​ものです。​そして、​その​授かりものを、​あたかも​自分の​努力で​獲得したかのように​考える​滑稽な​思い違いを​しないように​気を​つけてください。​決して​神の​ことを​忘れては​なりません。

このように​考えると、もし本当に​神の​お傍近くに​従い、​神と​人々に​仕えたいと​望むなら、​知識や​健康、​名誉や​気高い​望み、​勝利や​成功などから、​つまり​自分​自身から​本気で​離脱すべきことを​納得しなければなりません。

​ 高尚な​望みに​ついても​お話ししましょう。​常に​神に​光栄を​帰する​ことのできるよう、​次のような​規準に​従って​生きる​望みの​ことです。​つまり、​主が​お望みなら​望み、​そうでないなら​放棄する。​こう​すれば、​良心を​歪めている​虚栄心や​自己愛を​狙い​撃ちに​する​ことができます。​そして、​無私の​心を​得た​私たちは、​一層親密に、​一層熱烈に​神を​所有し、​心は​真の​平和に​安らぐ​ことでしょう。

​ 主に​倣うには、​あらゆる​種類の​執着を​断ち切らなければなりません。​「わたしに​ついて​来たい者は、​自分を​捨て、​自分の​十字架を​背負って、​わたしに​従いなさい。​自分の​命を​救いたいと​思う​者は、​それを​失うが、​わたしの​ために​命を​失う者は、​それを​得る。​人は、​たとえ全世界を​手に​入れても、​自分の​命を​失ったら、​何の​得が​あろうか」8。​この​言葉に​ついて​大聖グレゴリオは​説明を​加えています。​「物から​離脱していても​自分を​捨てなければ​不充分である。​しかし、​自分以外の​どこへ​行くのだろうか。​自分​自身から​出たのなら、​一体​放棄するのは​誰なのだろうか。

​ 罪に​よって​堕落している​状態と、​神に​よって​造られていると​いう​真実との​両方を​知らねばならない。​神に​よって​造られたと​いう​事実から、​自分とは​別な​所に​自分​自身の​存在のもとを​見つけ出す。​罪を​犯して​変わってしまった​自己を​放棄し、​恩寵に​よって​生まれ変わった​自己を​保持しよう。​このように、​高慢だった​者が、​キリストに​向かって​回心するなら、​謙遜に​なり自己を​放棄する​ことになる。​もし好色の​人が​節制に​努めるなら、​以前の​自分を​放棄したことになる。​また、​もし強欲な​者が​欲を​抑え、​他人の​ものを​奪うのを​止め、​寛大に​なり始めたら、​確かに​自己を​放棄したことに​なる」9。

キリスト信者の​自己支配

徹底的に​離脱した​寛大な​心を、​主は​お望みです。​自分を​虜に​している​太い​綱や​細い糸を​完全に​断ち切る​なら、​主の​お望みに​応える​ことができます。​そうする​ためには​自己の​判断と​意志を​捨てる​絶え間ない​戦いが​必要に​なりますが、​確かに​これは、​欲しくて​たまらない​物質的善を​捨てるよりもはるかに​骨の​折れる​仕事です。

​ 主は​すべての​キリスト者に​このような​離脱の​心を​要求されますが、​離脱の​心は​当然ながら​行いに​表れなければなりません。​「イエスが​行い、​また、​教え​始め」​10と​あるとおり、​主は​教えを​垂れるに​当たって​まず​行いで​示し、​次いで​言葉で​教えました。​極貧の​中、​馬小屋で​生まれ、​地上での​最初の​まどろみは​まぐさ桶の​藁の​中であったように。​その後の​宣教中に​示された​数多くの​模範の​中から、​弟子と​なって​従う​決意を​した​人たちに​向かって​言われた、​次のような​明白な​忠告を​思い出して​おきましょう。​「狐には​穴が​あり、​空の​鳥には​巣が​ある。​だが、​人の​子には​枕する​所も​ない」11。​また​弟子た​ちが、​空腹を​満た​すために​安息日であるにも​かかわらず麦の​穂を​摘んだ​場面12も、​決して​忘れないでください。

御父のみ​旨を​果たす主は、​いわば​その​日暮らしを​して、​ご自分の​教えを​実行しておられました。​「命の​ことで​何を​食べようか、​体の​ことで​何を​着ようかと​思い悩むな。​命は​食べ物よりも​大切であり、​体は​衣服よりも​大切だ。​烏の​ことを​考えてみなさい。​種も​蒔かず、​刈り​入れも​せず、​納屋も​倉も​持たない。​だが、​神は​烏を​養ってくださる。​あなたがたは、​鳥よりも​どれほど​価値が​ある​ことか。​(…)​野原の​花が​どのように​育つかを​考えてみなさい。​働きも​せず​紡ぎもしない。​しかし、​言っておく。​栄華を​極めた​ソロモンで​さえ、​この​花の​一つ​ほどにも​着飾ってはいなかった」13。

​ 絶えず​続く​主の​保護を​深く​信じ、​神の​摂理に​厚く​信頼して​生きるなら、​幾多の​心配事や​不安は​なくなるでしょう。​それだけでなく、​イエスの​言葉に​あるように、​超自然の​見方の​できない​不信仰な​人、​「この​世の​異邦人」​14が​感じるような​不安を​心に​抱く​こともないはずです。​友と​して、​司祭と​して、​また​父と​しての​信頼を​込めて​皆さんに​お願いします。​天に​おいでになると​同時に、​心の​内奥にも​住まわれる​慈しみ深い​全能の​御父、​その​御父の​おかげで​私たちは​神の​子と​なった​こと、​この​事実を​忘れないでください。​必需品と​思える​ものからも​離脱した​心と​楽観的な​心が​あれば、​日々の​生活の​営みを​難しく​するような​ものは​一つもない​ことを、​しっかりと​心に​刻みつけてください。​神は​「わたしたちに​何が​必要かを​ご存じで」15、​すべてを​整えてくださいます。​このような​生き方​以外には、​神の​お造りに​なった​世界16に​超然と​接する​態度を​保つことは​できないでしょう。​神の​子である​ことを​忘れて、​来るか​来ないかわからない​将来の​ことや、​明日の​ことを​思い煩うならば、​たびたび陥る​悲しむべき隷属状態を​避ける​ことができなくなってしまうからです。

再び、​私の​経験を​少しばかり​お話ししましょう。​神のみ​前に​いる​ことを​考えながら​話しています。​私は​人の​模範に​なるような​人間ではなく、​ぼろきれのように​哀れな​道具に​すぎません。​このような​私を​お使いに​なった​主は、​椅子の​足で​でも​完璧な​字を​お書きに​なれる​ことを​証明されました。​ですから、​私が​自分の​ことを​話しても、​私に​何らかの​功徳が​あるなどとは​毛頭考えていません。​主が​私を​導いてくださった​道を​歩むことを​他人に​強要する​つもりも​ありません。​生涯を​捧げた​オプス・​デイを​支障なく​成就させる​ために、​神は​すこぶる​助けに​なる​手立てを​くださいましたが、​全く​同じ​ものが​皆さん方にも​役立つとは​限らないからです。

​ 神の​摂理に​信頼し、​その​全能の​腕に​万事を​お任せするなら、​自らの​義務を​忠実に​果たし、​主と​教会と​全人​類に​奉仕する​手段を​常に​手に​入れるだけでなく、とうていこの​世の​善の​与え得ない​喜びと​平安に​浸る​ことができます17。​これに​ついては​手で​触れるように​自分の​目で​確かめてきましたから、​皆さんに​保証できます。

​ 一九​二八年の​オプス・デイ創立以来、​人間的手段は​何一つ​持た​ないばかりか、​個人的には​一銭たりとも​管理した​ことは​ありません。​物質界に​生きる​人間は​天使では​ありませんから、​仕事を​効果的に​する​ために​どうしても​手段が​必要と​なる。​手段と​言えば​経済的な​問題に​かかわってきますが、​私は​このような​問題にも​直接介入する​ことは​ありませんでした。

​ 使徒的事業を​維持する​ためには、​多くの​方々の​寛大な​協力が​必要でしたし、​これから​も​ずっと​その​必要が​続く​ことは​確かです。​この​種の​事業は​決して​利益を​生むものではない​上に、​協力者や​メンバーの​仕事量が​いくら増えても、​主への​愛が​なくならない​限り、​使徒職の​範囲は​さらに​広がり、​それに​伴う​必要もますます​多くなるはずだからです。​一度ならず霊的子供たちの笑いを​誘う​結果に​なりましたが、​神の​恩寵に​忠実であるよう励まし駆り立てる​一方、​もっと​多くの​恩寵と​現金、​それも​手の​切れるような​札束を​厚かましくも​主に​お願い​するよう励ました​ものです。

​ 創立当初は、​最低限度の​必需品にも​事欠いていました。​しかし、​神の​熱愛に​魅せられて​周りに​集まった​労働者や​職人や​学生たちは、​当時の​困窮を​意に​介しませんでした。​オプス・​デイに​おいては、​天の​助けを​支えと​して​一所​懸命に​働き、​数多くの​犠牲と​祈りを​捧げますが、​あまり​表に​あらわれないよう​努めてきました。​その頃を​思い浮かべる​たびに​心は​感謝の​念で​いっぱいに​なります。​何事であれ必ず​実現できると​いう​強い​確信が​ありました。​また、​神の​国と​その​義を​追い​求めるなら、​その​他の​ものは​加えて​与えられる​18ことを​確信していたからです。​使徒的な​事業を、​資金や​手立てが​ないと​いう​理由で​放棄する​ことは​ありませんでした。​主は​適当な​ときに​<通常の​摂理>を​通して、​色々な​形で​必要を​満たしてくださいました。​主は​いつも​寛大に​報いを​お与えに​なる​ことを​示されたのです。

もしも、​皆さんが​自らの​主人と​して​振舞いたいと​望むなら、​心配や​恐れなしに、​すべての​ものから​離脱する​強い​望みを​もってください。​その​あとで、​様々な​個人あるいは​家族の​義務に​留意し、​それを​果た​すために​正当な​手段を​正しく​使ってください。​おそらく​それと​同時に、​神と​教会への​奉仕、​専門職、​祖国、​全人​類に​対する​奉仕と​いう​面を​考えてくださる​よう​お願いします。​実際に​<持つ>か​<持たない​>かは、​問題では​ありません。​大切な​ことは、​この​世界の​ものは​あくまでも​手段に​過ぎないと​いう​信仰の​真理に​則して​生きる​ことです。​それゆえ、​この​世の​ものを​目的と​して、​最も​大切な​ものであると​考えては​なりません。​「地上に​富を​積んではならない。​そこでは、​虫が​食ったり、​さび​付いたりするし、​また、​盗人が​忍び込んで​盗み出したりする。​富は、​天に​積みなさい。​そこでは、​虫が​食う​ことも、​さび​付く​こともなく、​また、​盗人が​忍び込むことも​盗み出すこともない。​あなたの富の​ある​ところに、​あなたの心も​ある」19。

​ 本当に​悲劇的な​場面を​いくつも​見てきました。​幸せを​この​世の​ものの​中に​のみ​求めると、​往々に​して​使い方を​誤り、​創造主が​巧みに​お定めに​なった​秩序を​破壊してしまいます。​すると、​心は​悲しみと​不満に​閉ざされ、​おそらくは、​数限りない​努力と​自己放棄の​末に​手に​入れた​富の​犠牲と​なって、​不平不満だらけの​毎日を​送るは​めに​陥ってしまうでしょう。​主は、​無秩序で​粗野な​人、​虚しい​愛に​溺れた​者の​心には、​お住まいに​ならない​ことを​決して​忘れないでください。​「だれも、​二人の​主人に​仕える​ことは​できない。​一方を​憎んで​他方を​愛するか、​一方に​親しんで​他方を​軽んじるか、​どちらかである。​あなたがたは、​神と​富とに​仕える​ことは​できない」20。​「それゆえ、​幸せを​与える​愛に​しっかりと​心を​つなぎとめ、​天の​宝を​望もう」21。

義務の​遂行や​権利の​行使を​止めてしまいなさい、​と​勧めているのでは​ありません。​実は​その​反対を​主張しているのです。​義務や​権利を​捨てるなら、​神に​招かれた​戦い、​聖人に​なる​ための​戦いから、​卑怯にも​逃げてしまうことになります。​良心の​迷いを​感じる​ことなく、​特に​仕事に​励み、​あなたと​家族が​キリスト信者の​尊厳を​欠く​ことの​ないよう​努力してください。​万一、​必要な​ものを​欠くような​ことが​あっても、​決して​悲しんだり​反抗的に​なったりせず、​正しい​手段を​すべて​用いて、​そのような​状態を​切り抜ける​努力を​惜しまないでください。​努力を​怠ると、​神を​試すことになります。​さらに、​そのような​戦いの​間、​すべては​善の​ためである​ことを​忘れないでください。​神を​愛する​人々の​ためには、​欠乏や​貧窮を​も​含め、​すべてが​その善に​役立つのです22。​わずかな​制約、​不快、​暑さや​寒さ、​必需品の​欠乏、​さらに、​思うように​休息できない​ことや、​空腹、​孤独、​忘恩、​無理解や​不名誉などに、​喜んで​立ち向かう​決心を、​今から​立てておきたい​ものです。

父よ、​…​彼らを​この​世から​引き離さないでください

​ ​私たちは、​世相の​流れの​直中で​過ごす普通の​キリスト者です。​その​私たちに​主は、​聖人であれ、​使徒であれ、​とお望みです。​主は、​専門職を​通して​自分​自身と​仕事を​聖化し、​人々を​助け、​その​仕事で​人々を​聖化しなさい、と​仰せに​なるのです。​主は、​父と​して、​友と​しての​配慮を​もって、​今の​環境に​いる​皆さんに​期待しておられます。​それぞれが​自らの​分野で​責任を​もって​義務を​果たすなら、​単に​経済的支えに​なるだけでなく、​社会の​発展に​直接寄与し、​人々の​荷を​軽く​する​ことにもなります。​さらに​また、​地方​ごと、​あるいは​国レベルで​実行する、​個人を​対象か、​あるいは​恵まれない​国々を​対象とした​奉仕活動や​救済活動を​推し進める​ことにも​なるのです。

超​自然的な​物の​見方を​保ちながら、​人々と​全く​変わりない​生き方を​するのは、​神であり人である​イエスの​模範に​倣っているからに​ほかなりません。​主の​生涯は​どの​点から​みても、​自然であった​ことを​思い出してください。

​ 三十年もの間、​世間の​注目を​浴びる​ことなく、​普通の​労働者と​してお過ごしに​なりました。​村では​大工の​息子と​して​知られていたに​すぎません。​公生活の​間も​変わり者と​思われたり、​人の​目を​引いたりする​ことなく、​周囲の​人々と​同じように​友人に​取り囲まれ、​人々と​同じように​振舞っておいででした。​ユダは​主を​指し示すために、​「わたしが​接吻するのが、​その​人だ」​23と​具体的な​合図を​決めて​おく​必要が​あった​ほどです。​イエスには​奇妙な​ところは​全く​ありませんでした。​周囲の​人々と​同じ​生活の​営みを​続けた​主を​見ると、​心打たれます。

​ 洗礼者聖ヨハネは、​その​特別の​使命ゆえにらくだの​毛皮を​まとい、​いな​ごと​野蜜を​糧と​して​生きていました。​救い主は、​縫目なしの​上着を​まとい、​人々と​同じように​飲食されます。​他人の​幸せを​共に​よろ​こび、​隣人の​悲しみに​心を​痛め、​友人の​提供する​息抜きも​快く​受け入れておられました。​長年、​自らの​手を​使って、​大工の​ヨセフと​共に​生活の​糧を​得ていましたが、​その​ことを​誰にも​隠しませんでした。​社会に​生きる​私たちも、​主のように​日々の​生活を​営まなければなりません。​要約すると、​清潔な​服装と​清い体、​そして​何よりも​清い心で、​日々を​過ごさな​ければならないのです。

​ 主は、​現世的善から​離脱すべきことに​ついて、​素晴らしい​教えを​お説きに​なりましたが、​同時に、​ものを​浪費してはならない​ことを​も強調なさいました。​五千人以上の​人々を​満足させた​あの​パンの​奇跡の​後、​「『少しも​無駄に​ならないように、​残った​パンの​屑を​集めなさい』と​言われた。​集めると、​人々が​五つの​大麦パンを​食べて、​な​お残った​パンの​屑で、​十二の​籠が​いっぱいに​なった」24。​この​場面を​注意深く​黙想すれば、​要は、​けちに​なるのではなく、​神の​お与えに​なった​才能や​物質的手段の​よい​管理者であれ、​とお教えに​なっている​ことが​理解できるでしょう。

模範である​主に​ついて​考えた​今、​私が​述べる​離脱とは、​自分の​主人に​なる​ことであり、​怠惰や​不精の​仮面とも​言うべき、​いかにも​哀れな、​人目を​引く​貧しさではないことが​お分かりに​なったでしょう。​皆さんの​同僚と​同じく、​皆さんの​身分・環境・家族・仕事などの​品位に​応じた​服装を​すべきです。​もちろん、​真の​キリスト教的生活の、​魅力的な本物の​姿を​見せる​ため、​つまり神の​ために、​そうしなければなりません。​変わった​ところの​ない​自然な​生き方を​しなければならないのです。​しかし、​どちらかと​言えば、​悪すぎるより​良すぎる​ほうを​お勧めします。​主の​服装は​どのようであったと​想像されますか。​聖母マリアが​手ずから​織った​あの​縫目なしの​外套を​上品に​着こなしておられたとは​思いませんか。​招かれて、​席に​着く​前に、​手足を​洗う​水を​勧めなかった​シモンを​お咎めに​なったのを​覚えているでしょう​25。​愛は​細やかな​心遣いの​うちに​あらわれる​べきである​ことを​はっきりと​教える​ために、​あの​礼儀知らずの​態度を​引き合いに​出されたのですが、​実は、​郷に​入っては​郷に​従えと​いう​教えの​大切さを、はっきり​教える​ためでもありました。​とにかく、​地上の​富や​安楽から​離脱すべきでは​ありますが、​調子は​ずれや​場違いなことにならないよう、​気を​つけなければなりません。

​ 物は​注意して​使い、​不必要な​摩滅を​防ぎ、​長持ちするよう保存に​気を​配り、​使用目的にかなう​使い方を​するよう管理する​こと。​このような​態度は、​私に​とっては​世を​支配する​神の​忠実な​管理人である​ことの​表れです。​オプス・​デイの​センターでは、​質素で​上品な​装飾、​特に​清潔に​気を​つけています。​貧しさを​趣味の​悪さや​汚れと​混同してはならないからです。​とは​いえ、​皆さんが​自分の​可能性や​社会的義務に​相応しい​ものを​持ち、​それを​犠牲と​離脱の​心で​管理するのは​よい​ことです。

二十五年以上も​昔、​善意の​婦人グループの​管理する、​貧しい​人たちの​ための​大きな​慈善食堂に​通っていました。​物乞いで​生きる​人々は、​そこで​与えられる​わずかな​食事だけで​日々の​飢えを​凌いで​いたのです。​ある​日、​二番目の​グループの​一人に​注意を​引かれました。​その​人は​大切そうに​懐から​アルミ製の​スプーンを​取り出すと、​嬉しそうに​じっと​眺め、​食事が​終わると、​“これは​自分の​ものだ”と​言わんばかりに​再びスプーンを​愛でるのでした。​そして​二、​三度​それを​なめまわしてきれいに​した​あと、​満足げに​ぼろの​ひだの​中に​しまい​こみました。​それは​“その​人の​もの”でした。​不運な​生活を​強いられていた​人々の​中で、​その​哀れな​人は​お金持ちの​つもりだったのでしょう。

​ その頃、​ある​老婦人と​知り合いに​なりましたが、​その​婦人は​貴族の​称号を​もっていました。​ところで、​このような​称号は​神のみ​前で​なんの​価値も​ありません。​私たちは​全員、​アダムと​エバの​子であり、​弱い​存在、​徳と​欠点を​もっています。​それに、​万一、​主に​見捨てられると、​ひどい罪を​犯す​ことさえできるのです。​キリストの​贖いが​実現した後、​人種や​言語、​肌の​色や​血筋、​富などに​よる​人間の​違いは​なくなりました。​私たちは​みな神の​子です。​今お話ししていた​婦人は​先祖から​受け継いだ邸宅に​住みながら、​慎ましい​暮らしを​していました。​しかし、​家事の​手伝いを​してくれる​人には​とても​気前よくは​ずみ、​残りは​貧しい​人たちの​救済に​当てていたのです。​彼女​自身は​と​言えば、​あらゆる​欠乏に​耐えていました。​大勢の​人が​何と​しても​欲しがるような​資産家であったにも​かかわらず、​個人的には​貧しく、​犠牲心に​富み、​すべての​ものから​離脱した​心を​持っていました。​お分かりでしょうか。​この​話に、​次の​主の​言葉を​加えれば​すべて​明らかに​なるでしょう。​「心の​貧しい​人々は、​幸いである、​天の​国は​その​人たちの​ものである」26。

​ もし、​このような​心に​なりたければ、​自分​自身の​ことに​ついては​慎ましく、​他人には​気前よくなってください。​贅沢や​気紛れ、​虚栄や​安楽の​ための​無駄遣いを​避け、​今ある​もので​満足するよう努力する​ことです。​聖パウロと​共に、​「貧しく​暮らす​すべも、​豊かに​暮らす​すべも​知っています。​満腹していても、​空腹であっても、​物が​有り​余っていても​不足していても、​いついかなる​場合にも​対処する​秘訣を​授かっています。​わたしを​強めてくださる​方の​お陰で、​わたしには​すべてが​可能です」​27と​言えるようになりたい​ものです。​このように、​離脱して​何ものにも​縛られない​心を​持つなら、​聖パウロ同様、​内的戦いに​勝つことができるでしょう。

​ 大聖グレゴリオは​教えています。​「信仰の​競技場に​やってきた​人は​皆、​悪霊と​戦う​義務が​ある。​悪魔は​この​世に​何も​持っていないので、​裸で​戦いに​挑んでくる。​それゆえ、​われわれも​裸で​挑戦を​受けねばならない。​裸で​向かってくる​敵に​対して​服を​着て​応じるなら、​すぐ​負かされてしまうからである。​地上の​物は、​この​衣服の​類でなくて​何であろう」28。

神は​喜んで​与える​者を​愛される

​ ​私たちの​完全に​離脱した​心を​主は​お望みですが、​その​離脱の​対象と​なる​もう​ひとつ​大切な​点、​つまり​健康に​ついて​考えてみましょう。​皆さんの​大部分は​若くて​活気に​みちた​年齢の​人たちです。​しかし、​時の​経過に​伴い、​容赦なく​体力は​衰え​はじめ、​成熟期を​越え、​やがて​老化現象が​訪れます。​そのうえ、​いつなんどき病気に​かかり、​肉体的不調を​忍ばねばならなくなるか​知れません。

​ もし、​健康に​恵まれた​順調な​時期を​キリスト教的に​正しい​意向で​活用したなら、​人々が​思い違いから​悪いと​思う​出来事を、​超自然的に​喜んで​受け入れる​ことができるでしょう。​あまり​細かなことに​触れないように​気を​つけて、​私の​体験を​お話ししましょう。​病気の​時は​気難しくなりがちです。​「よく​気を​配ってくれない。​誰も​心配してくれない。​誰も​思うように​世話してくれず、​理解も​してくれない」など。​悪魔は​いつも​攻撃しやすい​弱点を​窺いながら​歩き回っています。​病人に​対する​悪魔の​策略は、​一種の​精神異常を​あおりたてて​神から​引き離し、​周りに​苦々しさを​撒き散らすように​働きかける​ことです。​その​苦しみを​超自然的、​楽観的に​忍べば​人々の​役に​立つ功徳を​積めるはずなのに、​そんな​ことは​させないように​するのです。​苦しみが​神のみ旨で​あれば、​それを​快く​受け入れなければなりません。​主の​救いの​十字架に、​もっと​直接に​あずかる​ことができるからです。​それには、​普段から​自分​自身に​執着しないで​日々を​過ごさな​ければなりません。​日常生活で、​ちょっとした​ものの​不足や、​いつもの​不平、​節制などを​利用して、​キリスト教の​徳を​実行するよう​努力してください。​そう​すれば、​主が​お許しに​なる​病気や​不運を、​気前よく​堂々と​忍ぶことができるでしょう。

日常生活では​自らに​厳しく​接すべきです。​自惚れや​気紛れ、​安楽や​怠惰などに​負けては​なりません。​負けてしまうと、​問題で​ない​事を​問題に​し、​必要でない​ものを​必要であると​考えてしまいます。​歩みを​阻む邪魔ものを​取り​除き、​重荷を​おろして、​急ぎ足で​主に​近づかなければなりません。​<心の​貧しさ>とは、​持たない​ことではなく、​真の​離脱の​ことですから、​勝手な​理由を​作り上げて、​仕方​ないと​諦めるが​ごとき​自己欺瞞に​陥らないよう​注意しましょう。​「必要な​分だけを​求めなさい。​そして、​それ以上は​望まないように。​必要以上の​ものは、​ほっとさせてはくれない。​それどころか​苦しみのもとになる。​奮起させる​どころか、​悲しくさせてしまうからである」29。

​ 一風​変わった​複雑な​事情を​想像して、​このような​ことを​勧めているのでは​ありません。​神の​現存を​保つために、​射祷を​書いた​紙片を、​栞と​して​使っていた​人を​知っていますが、​そうこうする​うちに​その​紙切れが​宝物のように​愛おしくなってきました。​何でも​ない​紙切れに​愛着を​感じている​ことに​気づいたのです。​大した​徳の​模範ですね!​お役に​立てるなら、​私自身の​惨めさを​お見せする​ことに​やぶさかでは​ありません。​いま少しだけ​お見せしました。​おそらく​あなたにも​同じような​ことがあるのではないかと​思うからです。​たとえば、​あなたの本、​服、​机、​あなたが​執着する​紛い物の​数々。

​ そのような​時には、​子供じみた​気持ちに​なったり、​小心にとらわれたりせずに、​霊的指導者に​相談してください。​時に​よっては、​短期間、​ある​物の​使用を​中止し、​小さな​犠牲と​して​捧げるだけで​充分でしょう。​いつも​利用している​乗り物を​一日​使わなかったとしても、​別に​大した​ことでは​ありませんから、​わずかな​額の​乗車料金を​献金する​ことも​できます。​いずれに​しても​離脱の​精神が​あるなら、​その​離脱の​心を​人目に​つかずに​実行する​機会を、​絶えず​見つけ出すことができるはずです。

​ 心を​打ち明けた​あとで、​捨てる​つもりの​一切ない​執着心を​持っている​ことも​白状すべきでしょう。​それは、​皆さんを​心から​愛している、と​いう​ことです。​この​愛は​神から​教わりました。​まず​自分の​周りから​はじめて、​すべての​人を​限りなく​愛し、​主の​模範を​忠実に​実行する​つもりです。​「イエスの​愛しておられた​弟子」​30と​いう​福音書の​言葉には、​イエスの​愛が​如実に​あらわれています。​主の​熱烈な​愛情を​知って​心を​打たれずに​いられるでしょうか。

祈りを​終えるに​当たって、​今日の​ミサで​読んだ​福音書の​言葉に​耳を​傾けましょう。​「過越祭の​六日前に、​イエスは​ベタニアに​行かれた。​そこには、​イエスが​死者の​中から​よみが​えらせた​ラザロが​いた。​イエスの​ために​そこで​夕食が​用意され、​マルタは​給仕を​していた。​ラザロは、​イエスと​共に​食事の​席に​着いた​人々の​中に​いた。​その​とき、​マリアが​純粋で​非常に​高価な​ナルドの​香油を​一リトラ​持って来て、​イエスの​足に​塗り、​自分の​髪で​その足を​ぬぐった。​家は​香油の​香りで​いっぱいに​なった」31。​マリアの​<浪費>くらい、​物惜しみしない​心を​表すものは​ないでしょう。​強欲な​ユダは​勘定高く​計算し、​少なくとも​「三百デナリオン」​32に​相当する​香油が​むだに​なったと​嘆きました。

​ 本当に​離脱しているなら、​神と​兄弟に​対して​すこぶる​広い心を​示すはずです。​隣人の​必要を​満た​すため、​身を​粉に​して、​すばやく​対策を​講じるはずなのです。​キリスト信者たる​者が、​自分と​家族の​必要を​満たすだけで​満足している​わけには​ゆきません。​信者たる​者の​心の​広さは、​愛徳と​正義に​基づいて​他人を​助ける​努力に​表れるはずです。​聖パウロは​次のように​ローマの​人たちに​書いています。​「マケドニア州と​アカイア州の​人々が、​エルサレムの​聖なる​者たちの​中の​貧しい​人々を​援助する​ことに​喜んで​同意したからです。​彼らは​喜んで​同意しましたが、​実は​そうする​義務も​あるのです。​異邦人は​その​人たちの​霊的な​ものに​あずかったのですから、​肉の​もので​彼らを​助ける​義務が​あります」​33と。

​ 限りなく​すべてを​捧げる​ほど​寛大であった​御方に​対して、​<けちけち>した​態度を​とらないようにしましょう。​金銭的にも、​真の​キリスト者の​名に​値すると​認めて​もらうのは​なかなか​難しい​ものです。​しかし、​特に​次の​ことを​忘れないでください。​「喜んで​与える​人を​神は​愛してくださるからです。​神は、​あなたが​たが​いつも​すべての​点ですべての​ものに​十分で、​あらゆる​善い業に​満ちあ​ふれる​ように、​あらゆる​恵みを​あなたが​たに​満ちあ​ふれさせる​ことが​おできに​なります」34。

​ イエス・キリストの​受難を​間近に​見ながら​生きる​この​聖週間中、​聖母に​倣って、​これらの​教えを​心に​留め、​思い巡らす35ことのできるよう、​マリアに​お願いしましょう。

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