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修徳主義だろうか、​それとも​神秘主義だろうか。​いずれでも​構わない。​修徳主義であろうが​神秘主義であろうが、​問題では​ありません。​いずれに​しても​神の​慈しみの​あらわれである​ことに​変わりは​ない。​あなたが​黙想に​努めるなら、​神は​必ず助けを​お与えに​なるでしょう。​大切なのは​信仰と​信仰から​生まれる​わざなのです。​わざであると​いうのは、​あなたも​最初から​経験し、​私も​その​都度​強調したように、​日毎に、​より​多くを​要求なさる​主に​応えねばならないからです。​これが​観想で​あり​交わり、​一致です。​たとえ気づく​人は​少ないと​しても、​これこそ​大部​分の​キリスト者の​あるべき姿なのです。​この​世界で​営々と​生活に​励む信者が、​無限とも​言える​内的生活の​様々な​道から、​自分に​固有な​内的生活の​道を​選び、​歩んで​行かねばなりません。

​ 日々の​仕事を​放棄しなくても​できる​祈りの​生活の​おかげで、​現世的に​正しい​抱負実現に​努力し、​神に​近づく​ことができる。​こういった​日常の​活動すべてを​神に​向けて​高める​とき、​世界を​聖化する​ことができます。​手に​触れる​ものを​すべて​金に​変えたと​いう​ミダス王の​伝説を​幾度も​聞いた​ことが​あるでしょう。​私たちは​過ちを​重ねるばかりでは​ありますが、​触れる​ものを​すべて​超自然的に​功徳の​ある​金に​変える​ことも​できるのです。

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