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日常の​生活

特殊な​信仰生活に​ついて​話しているのではない​ことを​重ねて​強調したいと​思います。​一人​ひとりの​ために​神が​なさった​こと、​そして、​私た​ちがいかに​応えたかに​ついて、​それぞれが​糾明しなければなりません。​勇気を​出して​自らを​糾明する​ことができれば、​まだ​足らない​点が​見つかる​ことでしょう。​昨日、​日本の​一求​道者が​キリストを​知らない​人たちに​カトリック要理を​教えていると​聞いて​感激し、​また​自分を​恥ずかしく​思いました。​私たちには​もっと​篤い​信仰が​必要です。​そして、​信仰と​共に、​観想が。

​ ​「わたしは​あなたを​贖う。​あなたは​わたしの​もの。​わたしは​あなたの名を​呼ぶ」​40。​神の​この​警告を​静かに​反復すれば、​胸騒ぎは​感じても、​同時に​甘美な​味わいに​浸る​ことができる。​あなたを​贖った、​あなたを​その名で​呼んだ、​あなたは​私の​ものだ!​生命を​捨てる​ほど​私たちを​愛してくださった神、​み前で​聖なる​者に​する​ため41永遠の​昔から​私たちを​選んでくださった神、​浄化と​献身の​機会を​間断なく​与えてくださる​神から、​神ご自身の​ものを​盗み取っては​なりません。

​ これだけの​説明では​まだ​疑問が​残ると​いうのなら、​神の​口から​もう​一つの​証しを​聴く​ことができる。​「あなたたちがわたしを​選んだのではなく、​わたしが​あなたたちを​選んだ。​遠くに​行って​実を​結び」、​観想の​精神から​生まれる​あなたたちの​仕事の​豊かな​「稔りが​残る​ためである」42と。

​ 信仰、​しかも​超自然の​信仰が​要求されています。​信仰が​緩んでくると、​神とは​自分の​子供など​構わない​ほど​遠い所に​おいでになる​御方であるかのように​考えてしまう。​宗教とは​万策尽きた​あとには​必要であるが、​それ以外の​ときは​付足しに​過ぎないと​考え、​いかなる​根拠が​あるのかは​知らないが、​おおげさで​突飛な​出来事を​期待します。​反対に、​信仰に​燃えている​ときには、​キリスト者の​生活も​人々の​普通の​生活と​何ら​変わる​ところの​ない​ことに​気づく。​神が​お求めに​なる​偉大な​聖性は、​今、​ここで、​日常生活の​小さな​出来事の​中に​潜んでいる​ことが​分かってくるのです。

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