自由は神の恵み

1956年4月10日


様々な​機会を​とらえて、​皆さんに、​福音書の​あの​感動的な​場面を​思い起こすよう​勧めてきました。​イエスは、​つい​先ほど​人々に​話しかけられた​ところ、​ペトロの​舟に​乗っておられます。​付き従ってくる​群衆を​見て、​人々の​救いを​思い、​心は​燃え​上がってきました。​そこで、​神である​先生は、​弟子たちにも​同じ​熱意を​もたせようと​望み、​「沖に​漕ぎ出しなさい」1と​命じ、​その後、​ペトロに​網を​降ろせと​仰せに​なりました。

​ この​場面から​多くの​教訓を​引き出すことができますが、​いま詳しく​考える​つもりは​ありません。​それよりも、​奇跡を​目の​当たりに​して、​「主よ、​わたしから​離れてください。​わたしは​罪人です」2と​叫んだ、​使徒の​頭ペトロの​反応に​ついて​考えてみたいと​思います。​ペトロの​言葉が、​私たち一人​ひとりに​当てはまることに​疑いの​余地は​ありません。​しかしながら、​今まで、​人々の​手を​通して​成就された​数多くの​恩寵の​働きを​見てきた​私は、​こう​叫びたい​気持ちで​いっぱいに​なります。​「主よ、​私から​離れないでください。​あなたの​助けが​なくては、​何一つ​良い​ことは​できませんから」。​しかも、​この​傾向は​日増しに​強くなる​一方です。

​ だから​こそ、​ヒポナの​司教の​口を​ついて​出た​言葉、​自由を​称える​あの​素晴らしい​歌が​よく​理解できるのです。​「神は​汝なしに​汝を​創造されたが、​汝なしに​汝を​救う​ことはなさらぬ」3。​悲しい​ことでは​ありますが、​神に​反旗を​ひるが​えしたり、​おそらく​行いで​神を​拒絶したり、​あるいは、​「神の​支配を​望まない」4と​叫んだりする​ことが、​私たちには​ありうるのです。

生命を​選ぶ

万物は、​神に​よって、​神の​ために、​無から​造られた​ことを​知り、​感謝せずには​いられません。​私たちが​招かれている​幸せが​どのような​ものかを​感じとることができるからです。​被造物の​中には、​しばしば​失うとは​いえ、​理性の​働きを​もつ​人間と、​理性を​もたない​ものとがあります。​後者の​中には、​地の​面を​かけ巡る​もの、​地の​下に​住むもの、​また​大空を​横切る​もの、​さらに​真正面から​太陽を​見つめる​ことのできる​もの​さえいます。​しかし、​この​驚く​ほど​多様な​被造物の​中で、​天使を​除けば、​自由を​行使する​ことに​よって​創造主に​一致できるのは​人間だけです。​生きとし生ける​ものの​創造主に​対して、​創造主に​ふさわしい​栄光を​帰する​ことができるのも、​また​それを​否むことができるのも​人間だけです。

​ このような​両極端の​可能性を​もっているから​こそ、​人間の​自由には​明暗両面が​あると​言われます。​深い愛である​主は、​私たちを​招いておられる。​善い​ものを​選べとおっしゃるのです。​「見よ、​今日、​わたしは​生命と​幸福、​死と​不幸を​指し示した。​もし、​今日、​わたしの​命じる​主の​掟に​従って、​神なる​主を​愛し、​その​道を​たどり、​その掟と​定めと​法を​守り​行えば、​おまえは​生きるだろう。​生命を​選びとれ、​生きる​ために」5。

​ <生命>を​選ぶ固い​決心が​ありますか。​聖性に​向かえと​励ます愛すべき神の​声を​聞く​とき、​進んで​「はい」と​答えているでしょうか。​よく​考えてみてください。​私も​良心の​糾明を​しています。​もう​一度​イエスに​目を​戻して、​パレスチナの​町や村で​お話しに​なる​様子を​眺めてみましょう。​主は​強制を​なさいません。​「もし完全に​なりたいなら…」6と、​あの​金持ちの​若者に​言われました。​金持ちの​青年は​主の​誘いを​拒みます。​福音書には、​「悲しそうに​立ち去って​行った」7と​記されています。​そこで、​私は​何度か​あの​若者の​ことを​<哀れな​鳥>と​呼びました。​あの​若者は、​自由を​神に​捧げるのを​拒否した​ために、​飛ぶことができず、​喜びを​失ってしまったのです。

大天使はいと​高き御者の​計画を​聖マリアに​告げました。​その​荘厳な​瞬間に​ついて​考えてみましょう。​私たちの​御母は​まず耳を​傾け、​次いで、​主の​要求を​さらに​深く​理解する​ために​質問なさいます。​その後、​はっきりと、​「なれかし」8、​お言葉の​通りに​この​身に​なりますように、​とお答えに​なりました。​これこそ神に​自らを​捧げる​決意です。​最高の​自由を​もつ​人の​返事です。

​ カトリック信仰の​秘義の​いずれを​みても、​このように​自由を​称えています。​至聖なる​三位一体は、​尽きる​ことの​ない​豊かなみ心の​愛を​注ぎ、​世界と​人類を​創造されました。​<みことば>は​天よりくだり、​人間の​体を​おとりに​なりましたが、​それは​ご自分の​自由を​御父の​意志の​中に​見事に​封じ込める​ことに​よってでありました。​「わたしに​ついて​巻き物に​記されているとおり、​神よ、​わたしは​あなたのみ​旨を​行う​ために​来た」9。​人間を​罪の​状態から​救い出すために、​神が​お定めに​なった​時が​訪れたのです。​ゲッセマニの​園で​血の​汗を​流すほど​苦しむ10イエス、​しかし​最後には、​御父の​望みどおりの​<いけに​え>と​して、​心静かに、​自発的に​自らを​捧げ、​「屠所に​引かれる​小羊のように、​毛を​刈る​者の​前に​物を​言わない​羊のように」11、​素直に​み旨に​従うイエスを​黙想しましょう。​主は​聖心を​開いてお話しに​なり、​ご自分こそ​御父に​近づく​ための​唯一の​道である​ことを​弟子たちに​教えられましたが、​その​ときすでに​受難を​予告しておかれました。​「わたしは​命を、​再び受ける​ために、​捨てる。​それゆえ、​父は​わたしを​愛してくださる。​だれも​わたしから​命を​奪い​取る​ことは​できない。​わたしは​自分で​それを​捨てる。​わたしは​命を​捨てることも​でき、​それを​再び受ける​ことも​できる」12。

自由の​意味

イエス・キリストの​愛と​同じく、​無限の​自由を​完全に​理解する​ことは​決して​できないでしょう。​しかし、​主の​この​上なく​貴重な宝、​すなわち寛大な​燔祭を​見ると、​尋ねないわけには​いきません。​なぜあなたは、​私が​み跡に​従うことも、​あなたに​逆らうことも​できるように​してくださったのですか。​このように​問い​かければ、​自由の​使い方の​正否を​判断できるようになります。​人が​善に​向かうなら、​その​自由の​使い方は​正しいが、​愛の​なかの​愛を​忘れて​神から​離れる​なら、​自由の​行使に​おいて​誤った​しるしです。​ひとりの​人間と​しての​自由、​私は​この​自由を、​今も、​いつまでも、​力の​限り弁護する​つもりですが、​とにかく​この​自由の​おかげで、​自分の​弱さを​知りつつも、​大船に​乗ったような​気持ちで​主に​申し上げる​ことができるのです。​「主よ、​何を​お望みか​おっしゃってください。​そして、​私が​進んで​それを​果たせますように」。

​ キリストは​答えてくださいます。​「真理は​あなたたちを​自由な​者と​するだろう」13。​ところで、​生涯を​貫く、​この​自由の​道の​始まりであり、​終わりである​真理とは、​一体どのような​真理の​ことなのでしょう。​神と​人間の​関係を​知れば​当然もちうる、​喜びと​確信に​満ちた​答えを​要約してみましょう。​ここで​いう​真理とは、​私たちが神のみ​手から​生まれ、​至聖なる​三位一体の​深い愛の​対象と​なり、​かくも​偉大な​御父の​子であると​いう​こと。​この​真理を​よく​自覚し、​日々​味わう​決心が​できるよう、​主に​お願いしましょう。​そう​すれば、​自由な​人間に​ふさわしい​生き方が​できます。​しっかりと​心に​刻み込んで​おいてください。​神の​子である​ことを​知らない​人なら、​自分に​最も​近しい​真理を​知らないわけですから、​何ものにもまして​主を​愛する​人らしく、​自らを​支配し、​自らに​打ち​勝つことは​できないでしょう。

​ 天国を​勝ち取る​ためには、​ためらわず、​たゆみなく、​全く​自発的に​決意して、​自由に​道を​切り拓いてゆか​ねばなりません。​しかし、​自由意志だけでは​充分でなく、​道標なり道案内なりが​必要です。​「魂が​歩みを​進める​ためには、​導き手が​いる。​それゆえ​魂は、​悪魔ではなく、​キリストを​王と​する​ことのできるよう​贖われたのである。​悪魔の​支配は​耐え難いが、​キリストのく​びきは​快く、​その荷は​軽い​(マタイ11・30)」14。

​ 自由、​自由、​と声を​大に​して​叫ぶ​人々の​欺瞞を​退けなさい。​そのような​叫びは​悲しむべき奴隷状態に​陥っている​証拠である​ことが​多いのです。​過ちを​選べても​自由であるとは​言えません。​私たちを​自由に​する​ことが​おできに​なるのは​キリストだけです15。​主のみ、​道であり、​真理、​生命です16から。

再び、​神に​問い​かけてみましょう。​主よ、​何の​ために​このような​能力を​与えてくださったのですか。​なぜ、​選んだり、​拒否したりする​力を​お与えに​なったのですか。​私が​この能力を​正しく​使う​ことを​お望みです。​しかし、​私は​何を​すれば​よいのでしょうか17。​すると、​ためらいを​許さぬ適確な​答えが​返ってきます。​「心を​尽くし、​精神を​尽くし、​思いを​尽くして、​あなたの神である​主を​愛しなさい」18。

​ お分かりでしょうか。​自由が​本当の​意味を​もつのは、​救いを​もたらす真理を​得る​ために​使う​とき、​あらゆる​種類の​奴隷状態から​解き​放つ神の​無限の​愛を、​疲れを​いと​わず​求める​ときなのです。​キリスト者が​有する​この​測り​知れない​宝、​つまり​「神の​子らの​光栄の​自由」​19を​大声で​人々に​告げ知らせたいと​いう​気持ちが​日毎に​強くなります。​聖パウロの​言葉には、​「善悪を​識別した​後に​善」を​追求すると​いう、​「善き意志」​20に​ついての​教えが​要約されています。

​ 良心の​負うべき​大切な​責任に​ついて​黙想して​欲しいと​思います。​誰一人と​して​私たちの​代わりに​選択する​ことは​できません。​「善に​向かって​自己を​導くのは、​自分​自身であって​他人ではないと​いう​こと、​ここに​こそ、​人間の​も​つ​最高の​尊厳が​ある」21。​カトリックの​信仰を​両親から​受け継い​できた人は​大勢います。​神の​恵みに​よって、​生まれて間もなく​洗礼を​受けた​とき、​超自然の​生命が​芽生えました。​しかし、​全生涯を​通じて、​いや​毎日、​何にもまして​神を​愛すると​いう​決意を​新たにしなければなりません。​「神の​御独り子である​<みことば>の​支配を​無条件に​受け入れる​者こそ、​キリスト信者、​つまり真の​信者である」22。​そして、​この​恭順には、​「神である​主を​拝み、​ただ主に​仕えよ」​23と​言われた​キリストと​同じ​態度で​悪魔の​誘惑に​立ち向かう​心構えが​伴っていなければなりません。

自由と​献身

神の​愛は​妬み深く、​呼びかけに​条件づきで​応えても​満足してはくださいません。​すべてを​捧げよ、​超自然の​賜物と​恩寵の​喜びの​邪魔を​する​正体の​明らかでない​障害を、​心からとり払いなさい。​主は​このように、​も​どかしげに、​待っておいでになります。​ところで、​神の​愛に​無条件に​応えると、​自由を​失うことに​なりは​しないかと​心配する​人も​いるでしょう。

​ この​祈りの​ひと​ときを​見守ってくださっている​主の​助けと​光の​おかげで、​いま黙想中の​テーマが​一層明らかに​理解できればと​思います。​主キリストに​仕えるのなら、​苦痛と​疲れを​避ける​ことができない​ことは、​経験に​よってすでに​知っています。​このような​事実を​否定する​人は、​まだ神と​出会っていない​人でしょう。​愛に​溢れた​人なら、​たとえ苦しみに​襲われても、​その​苦しみは​永続する​ものではなく、​荷も​軽く​快い​ものである​ことが​すぐに​分かるはずです。​人間の​永遠の​幸福が​かかっている​とき、​十字架を​抱きしめてくださったように​24、​主は​自ら重荷を​担ってくださいます。​しかし、​これが​理解できない​人もいます。​弱々しく、​悲しくもけちな​反抗では​あるが、​創造主に​反旗を​ひるが​えし、​詩編に​出てくる​あの​意味の​ない​不満の​声を​盲目的に​繰り返すのです。​「彼らの​枷を​打ち​砕き、​くびきを​投げ捨て​よう」25​(1972年典礼委員会訳)。​反抗を​続けたり、​毎日の​仕事の​辛さを​見せびらか​したり、​不平を​こぼしたりするばかりで、​黙々と​自然な​態度ですべてを​果た​そうとしません。​たとえ苦しみと​痛みが​伴っても​神のみ​旨を​果たすなら、​神ご自身と​神の​計画の​中に​しか​存在しない​自由を​自分の​ものに​できる​ことが​理解できない​人々です。

このような​人たちは、​<自由を​通せん​坊>しています。​間違いなく​自由を​持ちながら、​自由、​自由と​叫ぶだけで​自由を​行使せず、​浅はかな​理解力に​頼って​泥の​偶像を​こねあげ、​安置して​眺める。​これが​自由と​言えるでしょうか。​真剣に​努力して​人生を​歩まなければ、​たとえ自由と​いう​宝を​持っていても、​宝の​持ち腐れと​いう​ものです。​そんな​ことに​なれば、​人間の​品位と​尊厳に​反してしまいます。​この​地上で​どう​歩むかを​示す道と​確かな​道順を​知らないからです。​皆さんも​出会った​ことが​あるでしよう。​このような​人々は​いずれも、​虚栄心や​自負心が​子供のように​強くて、​利己主義や​快楽に​引きずられる​ままに​なってしまいます。

​ 彼らの​言う​自由とは​不毛である​ことが​すぐに​暴露されるか、​あるいは​人間的に​みても​馬鹿げた​実を​結ぶ​ほか​ありません。​正しい​行動の​規範を​自ら​自由に​選ばなければ、​遅かれ早かれ、​他人の​支配下に​落ち、​寄生虫のように​他人任せで、​無感覚な​人生を​送るは​めに​陥る​ことでしょう。​風のままに​なびき、​いつも​他人に​事を​決めて​もらう。​このような​人たちは、​「風に​追われて雨を​降らさぬ雲、​実らず​根こぎに​されて​枯れ果ててしまった​晩秋の​木」26。​だから、​絶えまない​お喋りと​取繕いで​時を​過ごし、​人格と​勇気と​誠実さに​欠けた​状態を​覆い隠そうとする。

​ 誰からも、​どのような​強制も​受けていないと、​しつこく​繰り返す。​しかし、​自ら​自由に​決定を​下し、​そこから​生ずる​結果に​対して​責任を​とる​勇気も​中身も​ない​自由は、​あらゆる​種類の​束縛を​受けているのです。​神の​愛の​ない​ところでは、​個人の​自由を​各自が​責任を​もって行使する​ことなどできません。​見かけは​どう​あれ、​すべての​ものから​強制を​受けます。​物事を​はっきりさせない​優柔不断な​人は、​鋳型のままに​形が​変わる​粘土ですから、​誰に​でも​簡単に、​好きなように​形を​変えられてしまいます。​なかでも、​原罪の​傷を​負う本性の​情欲と​悪への​傾きには、​簡単に​負けてしまうのです。

タラントンの​喩え話を​思い出してください。​一タラントンを​受け取った​召​使いは、​同僚と​同じように、​自分の​才能を​活かして​預かった​タラントンを​うまく​活用し、​利益を​引き出すことが​できたはずです。​何を​考えていたのでしょう。​タラントンを​失っては​大変だと​心配します。​それは​それで​悪くは​ありません。​しかし、​その後で​何を​しましたか。​タラントンを​地に​埋めた​27ので、​なんらの​利益を​上げる​ことも​できませんでした。

​ 逃げの​態度を​とってしまい、​仕事の​能力、​知性、​意志を​使う、​つまり​全身​全霊を​込めて​事に​当たる​ことを​しなかったのです。​忘れないで​おきたい​喩えです。​あの​哀れな​男は​考えました。​「タラントンは​埋めよう。​これで​自分の​自由は​確保できる」。​ところが、​そうは​いきません。​あの​召使いの​自由は、​いかにも​貧しくて​不毛な​ものに​向かってしまいました。​自分で​方法を​選ぶほか​なかったので、​確かに​選びは​しましたが、​失敗します。

​ 自由と​献身は​両立しないと​考える​ほど​愚かな​ことは​ありません。​献身は​自由の​結果と​して​生まれるのです。​たとえば、​母親が​自分の​子供たちの​ために​自らを​犠牲に​するのは、​自分で​自由に​選択したからです。​愛の​大小に​比例して、​自由の​大小が​決まります。​愛が​大きければ、​多くの​実を​結ぶでしょう。​子供たちの​善は、​献身を​意味する​幸いな​自由と、​本物の​自由である​幸いな​献身から​生まれる​ものです。

しかし、​やがて、​全霊を​込めて​愛する​ものを​手に​入れれば、​もう​それ以上は​探し求めなくなるのではないか、​自由は​消えてしまうのではないかと、​危惧されるかもしれません。​実は、​その​時こそ、​自由は​一層​自由に​なったと​言えます。​本当の​愛が​あれば、​習慣的に​義務を​果たす​ことで​満足する​こともなければ、​不快感を​味わうことも、​無関心に​陥る​こともないからです。​愛するとは、​毎日​仕え直す​こと、​愛情の​こもった​行いを​実行する​ことです。

​ 皆さん​一人​ひとりの​心に、​火と​燃える​文字で​深く​刻み込んで​欲しいので、​重ねて​申し上げたい。​自由と​献身は​決して​矛盾する​ものではない、かえって​互いに​助け合う​ものであると。​愛が​あってこそ、​自由を​捧げる​ことができます。​愛が​なければ、​自由を​捧げる​ことは​できないのです。​当たらずとも​遠からず式に​言葉を​弄んでいるわけでは​ありません。​自ら​進んで​献身するなら、、​献身は​自由の​結果ですから、​一つ​ひとつのの​献身の​行為が​愛を​新たに​する​ことになります。​そして、​献身を​新たに​するとは、​若さと​寛大さを​失わず、​大きな​理想を​もち続けて、​大きな​犠牲を​払う力を​維持する​ことです。​ポルトガル語で​若者の​ことを​<新しい​人たち>と​呼ぶと​知った​とき、​たい​そう嬉しかった​ことを​覚えています。​若者とは​実に​<新しい​人>の​ことです。​このような​話を​するのは、​私自身もう​かなりの​歳ですが、​「わたしの​若さを​喜びで​満たす神」​28に​向かって​祭壇のもとで​祈る​とき、​本当に​若々しい​力を​感じるからです。​自分が​年寄りだと​思った​ことは​ありません。​忠実に​神に​留まるなら、​神の​愛は​私を​絶えず​生き​生きとさせ、​鷲のような​若さを​保たせてくださいます29。

​ 自由を​愛するが​ゆえに​我が​身を​縛る。​高慢に​なった​ときのみ、​このような​状態を​鎖のように​重たく​感じるようになります。​心の​柔和で​謙遜な​キリストは、​真実の​謙遜に​ついてお教えに​なりましたが、​本当に​謙遜で​あれば、​主の​く​びきは​快く​その荷は​軽い​30こと、​また​そのく​びきこそ​自由で​あり、​愛、​一致であり、​生命である​こと、​くびきこそ主が​十字架上で​勝ち得てくださった宝である​ことが​理解できるはずです。

良心の​自由

長年の​司祭生活を​通じて​私は、​個人の​自由への​愛を、​説くと​いう​より、​むしろ​大声で​叫んできました。​そういう​とき、​自由を​擁護すると、​信仰に​害を​与えるかのように、​人々の​顔に​不信の​色が​浮かぶのに​気づきました。​このような​臆病な​態度が​消え去るように​願って​やみません。​信仰に​害を​加えるのは、​誤って​解釈された​自由、​目的も​客観的規準も​原理も​責任ももたない​自由、​一言で​いうなら、​わが​ままだけです。​不幸にも​ある​人々が​守ろうと​しているのは​放縦、​つまりわが​ままです。​そのような​意味での​自由を​回復する​ことこそ、​信仰を​傷つけると​言わなければなりません。

​ と​いうわけで、​神を​拒否する​ことが​道徳的に​善であると​いうに​等しい、​誤れる​<良心の​自由>に​ついて​話す​ことは​正しく​ありません。​主の​救いの​計画には​反抗する​ことも​できると​言いましたが、​たとえできると​しても、​そのような​ことは​すべきでは​ありません。​万一誰かが​故意に​このような​態度を​とるなら、​「あなたの神である​主を、​全力を​尽くして​愛しなさい」31と​いう、​最も​根本的な​第一の​掟に​反する​罪を​犯すことになります。

​ 私は​もう​ひとつの​「良心(複数)の​自由」​32を​擁護します。​人々の​神礼拝を​阻むものは、​なんぴとに​対しても、​それは​違法であると​全力を​挙げて​教えます。​真理を​求める​正当な​心を​尊重しなければなりません。​人間は、​主を​探し求め、​主を​知り、​主を​礼拝すると​いう​重大な​義務を​負っています。​しかし、​この​地上では​いかなる​人も​信仰の​実践を​隣人から​強制される​べきでは​ありません。​同じように​誰も、​神を​信じる​人に​害を​加える​権利は​ありません。

母なる​教会は、​常に​自由を​守る​ために​発言してきましたし、​時代を​問わず​あらゆる​種類の​宿命論を​排斥してきました。​目的の​善悪に​かかわらず、​人それぞれが​自分の​運命を​決定すべきであると、​教会は​常に​教えてきたのです。​「善から​遠ざからない​者は​永遠の​生命に​至り、​悪を​犯すものは​永遠の​火に​入るであろう」33。​人間の​高貴さの​しるしでも​あり、​誰もが​有する​この​驚くべき能力には、​いつに​なっても​圧倒される​思いが​します。​「罪は​全く​意志に​よる​悪であって、​意志的でなければ、​いかなる​仕方に​よっても​罪は​生じないのである。​この​ことは​充分以上に​明らかであって、​賢者も​無学な​者も、​これに​反対は​しない」34。

​ わが​主、​わが​神に​向かって、​再び感謝の​意を​表したいと​思います。​罪を​犯しえない​私たちを​造り、​有無を​言わさず​善に​向かわせる​ことも​できたのに、​そうは​せず、​「自由に​仕える​召使いの​方が​良いと​判断された」​35からです。​御父の​愛と​慈しみの​深さには、​感嘆する​ほか​ありません。​ご自分の​子供たちへの​想像を​絶する​ほど​大きな​神の​愛を​前に​して、​父である​神、​子である​神、​聖霊である​神を​称え続ける​ために、​幾千幾万もの​口と​心を​もちたいと​思います。​摂理に​よって​宇宙を​統治される​全能の​御方は、​強制されて​動く​奴隷ではなく、​自由な​子供を​お望みに​なりました。​私たちは​人祖の​堕罪に​より​罪への​傾きを​もって​生まれますが、​神は​一人​ひとりの​魂の​中に​ご自分の​無限の​知性の​閃きと、​善に​心惹かれ、​永続する​平和を​切なく​恋焦がれる​能力とを、​注ぎ入れてくださいました。​その​おかげで、​真理と​幸福と​自由を​得るのは、​心の​中で​永遠の​生命が​芽を​出すように​努力する​ときである​ことが​分かるのです。

神に​「否」と​答えて、​新たな​幸福のもとを​決定的に​拒む。​人間には​こんな​力が​与えられました。​しかし、​そのような​力を​使うと、​神の​子である​ことを​止め、​奴隷に​なりさがってしまいます。​「ものは​それぞれ、​自己が​従うべき本性に​合わない​ものを​求めて​動く​とき、​自己に​固有の​存在様式にではなく、​外部からの​刺激に​よって​行動している​ことになる。​これは​隷属を​意味する。​人は​本性に​おいて​理性的存在である。​人間は​理性に​従って​行動する​とき、​人間独自の​振舞いを​すると​言える。​これは​自由を​有する​人間に​固有な​働き方である。​罪を​犯すとき、​人間は​理性に​反して​行動しているのであって、​その​ときには、​敵の​領地に​引きずりこまれ、​他からの​刺激に​従って​働く​ことになる。​それゆえ、​罪を​受け入れる​者は、​罪の​奴隷である​ (ヨハネ8・34)」36。

​ 何度も​繰り返す​ことを​お許しください。​歴然とした​事実であり、​自他の​経験に​照らして​見れば​すぐ​確認できます。​すなわち、​何ものにも​隷属していない​人は​いない、と​いう​こと。​ある​者は​富の​前に​平伏し、​ある​者は​権力を​崇める。​ある​者は​懐疑主義と​いう​見せかけの​平穏に、​また​ある​者は​官能の​快楽に​宝を​求める。​同じような​ことは、​もっと​貴いことに​おいても​起こります。​仕事に、​まずまずの​規模の​事業に、​学問、​芸術、​文学、​あるいは​宗教関係の​仕事遂行に​一所懸命に​力を​注ぎます。​努力を​傾けるなら、​真の​情熱を​もっているなら、​自らが​没頭する​ものの​奴隷のようになり、​自らの​仕事の​ために​進んで​身を​粉に​して​働きます。

知ってか知らずか、​何かに​隷属するのが​人間の​定めです。​色々な​隷属状態を​秤に​かけてみると、​隷属するのであれば、​愛ゆえに​神の​奴隷に​なる​ほど​素晴らしい​ことは​ありません。​その​瞬間に​隷属状態から​免れ、​神の​友、​神の​子に​なることができるからです。​違いは​この辺に​あらわれます。​まっとうな​仕事に​対しては​周囲の​人と​同じ​情熱、​同じ​熱意を​注いで​対処しますが、​魂の​奥底に​ある​平和を​失う​ことは​ありません。​逆境に​陥っても、​喜びと​落ち着きを​もって​事に​当たり、​過ぎゆく​ものにではなく、​永遠に​残る​ものに​信を​置きます。​「わたしたちは​女奴隷の​子ではなく、​自由な​身の​女から​生まれた​子である」37からです。

​ この​自由は​どこから​来るのでしょうか。​私たちの​主キリストから​来ます。​主は​私たちを​自由に​よって​贖ってくださいましたが、​その​同じ​自由が​与えられたのです38。​ですから​神は、​「子が​あなたたちを​自由に​すれば、​あなたたちは​本当に​自由に​なる」39と​仰せに​なったのです。​キリスト信者は​この​自由と​いう​恵みの​真の​意味に​ついて​誰にも​教えを​乞う​必要は​ありません。​人を​救う​ことのできる​唯一の​自由は、​キリストに​由来するからです。

​ 私は​好んで​自由と​いう​冒険に​ついて​話します。​私たちの​一生は​正に​自由の​織りなす冒険です。​重ねて​申しますが、​奴隷ではなく、​自由な​子と​して、​主の​お示しに​なった​道を​歩みます。​自由で​軽快な​歩みを​神の​賜物と​して​味わうのです。

​ 誰の​強制も​受けず、​自由に、​自ら​望むと​いう​理由だけで、​私は​神を​選ぶことに​決めました。​わが​主キリストを​愛するが​ゆえに、​私の​一生を​奉仕、​つまり、​隣人に​仕える​生活に​する​決心を​します。​このような​自由を​もつから​こそ、​勇気を​出して、​この​世では​何ものも​キリストの​愛から​私を​離せない​40、と​叫ぶことができるのです。

神に​対する​責任

​「主が​初めに​人間を​造られた​とき、​自分で​判断する​力を​お与えに​なった​(シラ書15・14)。​人間に​自由選択の​力が​なかったとしたら、​この​ことは​ありえなかったであろう」41。​私たちは、​自由に​行う​行為すべてに​ついて、​神の​前で​責任を​負わねばなりません。​匿名は​認められないのです。​人は​主の​前に​立っており、​神の​友と​して​生きるか​敵と​して​生きるかの​決定は、​自分の​意志ひとつで​決まるからです。​こうして​心の​戦いが​始まります。​そして、​その​戦いは​一生の​間​続きます。​この​世での​歩みを​続けている​間は、​完全な​自由を​得る​人は​いないからです。

​ さらに、​キリスト教の​信仰が​あれば、​信仰を​提示する​ときに、​あらゆる​種類の​ごまかしと​強制を​避けると​同時に、​すべての​人々の​自由を​保証する​ことができます。​「もしキリストのもとに​引きずられて​行くなら、​いやいやながら​信じる​ことになる。​その​とき用いられるのは​自由ではなく​暴力である。​望まなくても、​人は​教会の​一員に​なることができ、​祭壇に​近づく​ことも​できる。​欲せずとも、​秘跡に​あずかる​ことさえできるだろう。​しかし、​信じる​ことができるのは、​自ら​望むものだけである」42。​分別の​つく​年齢に​達した​人が​教会の​一員に​なる​ためには、​また、​主の​絶え間ない​呼びかけに​応えるには、​自由に​決意すべきである​ことは​明らかです。

宴会に​招かれた​人たちの​喩えの​中で、​晩餐に​出席すべき​人々の​幾人かは、​理由に​ならない​理由を​あげて​招待を​断りました。​すると​家長は​召使いに​命令します。​「通りや​小道に​出て​行き、​無理に​でも​人々を​連れて​来なさい」43。​これは​強制ではないでしょうか。​各々が​有する​良心の​正当な​自由を​無視して、​暴力を​用いるに​等しいと​言うべきではないでしょうか。

​ 福音書を​よく​読み、​イエスの​教えを​深く​黙想してみると、​家長の​命令は​決して​強制ではないことが​分かるでしょう。​キリストが、​いつも、​どのような​方​法で​勧めを​お与えに​なるかを​ごらんなさい。​「もしあなたが​完全に​なりたいなら…」、​「もし​私の​跡に​従いたいと​思うなら…」、と​仰せに​なります。​この​章句の​「無理に​でも​連れて​来なさい」と​いう​命令は、​物理的強制でも​精神的強制でもありません。​信者の​強い​模範の​力を​示す​ところです。​キリスト者の​行いの​うちに​神の​力が​働く​ことを​示しているのです。​「御父が​どのように​人を​引きつけられるかを​見よ。​無理に​引き寄せるのではなく、​喜んで​教える​ことに​よって、​人を​お引き寄せに​なるのだ」​44。

​ このように​自由な​雰囲気の​なかで​呼吸するなら、​悪を​行う​ことは、​解放ではなく、​隷属である​ことが​明らかに​なります。​「神に​対して​罪を​犯すものは、​強制からの​自由と​いう​意味では​自由意志を​持ち続けるが、​罪からの​自由と​いう​点では​それを​失う」45。​自分の​好みに​従って​行動したのだ、​と​言えるかもしれませんが、​真の​自由を​享受するには​至らないでしょう。​神不在、​つまり​最悪の​ものを​選んだわけで、​自由に​なる​どころか、​最悪な​ものの​奴隷に​なり下がったわけですから。

重ねて​申し上げます。​神の​愛への​隷属以外の​隷属を​受け入れる​ことは​できません。​他の​機会に​説明したように、​宗教とは、​獣のような​生き方には​甘んじたくないと​いう​人間、​創造主と​交わり、​主を​知るまでは​満足できず、​良心の​安らぎを​覚える​こともない​人間の、​最大の​反抗であるからです。​あらゆる​束縛から​解き放たれた​反乱分子に​なって​欲しいのです。​キリストが​そう​お望みですが、​私も​皆さんには​神の​子であって​欲しいのです。​奴隷に​なるか、​神の​子に​なるか​―これこそ​人間の​ジレンマです。​神の​子に​なるか、​さも​なければ、​多くの​霊魂が​陥る​高慢と​官能と​虚しい​利己主義の​奴隷と​なるか。​ほかに​道は​ありません。

​ 愛である​神が​真理と​正義と​善の​道を​示してくださいます。​主に​向かって、​「私の​自由は​あなたの​ために」と​応える​決心を​するなら、​卑小な​ことや馬鹿げた​心配事やけちな​野心に​自分を​縛りつけていた​鎖が​ことごとく​外れます。​そして、​測り​知れない​値打ちの​ある​宝、​豚に​投げ与えるには​あまりにも​高価で​素晴らしい​真珠46に​等しい​自由を、​余す​ところなく、​善の​実行の​ために​使うことができるのです47。​これこそ、​神の​子らの​光栄ある​自由です。​神の​言葉に​耳を​貸さない​者の​放縦を​前に​して、​万一、​キリスト信者が​影響を​受けてびく​びくしたり、​妬みにかられたりするなら、​それこそ、​信仰に​ついてみすぼらしい​考えしかもっていない​ことを​自ら暴露する​ことになります。​本当に​キリストの​掟を​守るなら、と​いう​より、​いつも​上手く​いくとは​限りませんから​<掟を​守る​>努力を​するなら、​人間の​尊厳の​もっとも​完全な​意味を​あちこち探しまわる​必要もなく、​凛々しい​精神を​与えられている​自分の​姿に​気づく​ことでしょう。

​ 私たちの​信仰は​重荷でも​制限でもありません。​そう​考えるようなら、​キリスト教の​真理に​ついて​実に​貧しい​考えしかもっていない​証拠です。​神を​選ぶ決心を​すると、​何一つ​失う​ことなく、​すべてを​得る​ことができます。​「自分の​命を​得ようとする​者は、​それを​失い、​わたしの​ために​命を​失う者は、​かえって​それを​得るのである」48。

​ 私たちは​一等賞・​切り札を​引き当てたのです。​この​ことがはっきりと​分からない​ときには、​何かが​邪魔を​しているわけですから、​心の​内を​糾明してみましょう。​おそらく、​信仰が​薄く、​神との​個人的な​付き合いや​祈りが​足りない​毎日を​送っているからでしょう。​主の​御母で​あり​私たちの​母である​聖母の​執り成しを​通して、​私たちの​愛を​増してくださる​よう、​また、​主の​現存が​もたらす​甘美さを​味わう​ことのできるよう、​主に​お願いしましょう。​愛する​ときのみ、​最も​完璧な​自由を​享受する​ことができます。​私たちの​愛の​対象を、​永遠に​見失わず、​決して​捨てないための​自由を​得る​ことができるのです。

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