自然徳(人間徳)

1941年9月6日


聖ルカ福音書の​第七章を​繙いてみましょう。​「さて、​ある​ファリサイ派の​人が、​一緒に​食事を​して​ほしいと​願ったので、​イエスは​その​家に​入って​食事の​席に​着かれた」1。​すると、​その町で​罪の​女と噂の​ある​女が​香油を​入れた​壷を​持って​入って​来ました。​その女は、​当時の​習慣どおり横に​なっている​イエスに​近づき、​主の​足を​洗います。​この​感動的な​場面を​想い​浮かべてください。​女は​涙で​イエスの​足を​洗い、​黒髪で​拭う、​そして​御足に​口づけした​あと、​香油を​塗ります。

​ ファリサイ派の​人は​物事を​悪いようにしかとりません。​イエスの​無限の​慈しみが​理解できず、​「この​人がもし預言者なら、​自分に​触れている​女が​だれで、​どんな​人か​分かるはずだ」​2と​考えたので、​イエスは​それを​見抜いて​諭します。​「この​人を​見ないか。​わたしが​あなたの​家に​入った​とき、​あなたは​足を​洗う​水も​くれなかったが、​この​人は​涙で​わたしの​足を​ぬらし、​髪の​毛で​ぬぐってくれた。​あなたは​わたしに​接吻の​挨拶もしなかったが、​この​人は​わたしが​入って​来てから、​わたしの​足に​接吻してやまなかった。​あなたは​頭に​オリーブ油を​塗ってくれなかったが、​この​人は​足に​香油を​塗ってくれた。​だから、​言っておく。​この​人が​多くの​罪を​赦された​ことは、​わたしに​示した​愛の​大きさで​分かる」3。

​ さて、​今回は​主の​慈悲深い​聖心ではなく、​イエスが​人々に​欠けているとお気づきに​なった​点、​つまり、​礼儀や​細やかな​心遣いに​ついて​考えてみましょう。​それらは​ファリサイ派の​人が​持ち合わさなかった​心です。​キリストは​三位一体の​第二の​ペルソナ、​完全な​神であり完全な​人間4です。​キリストは​救いを​もたらす御方であって、​人間性を​破壊するような​ことはなさいません。​キリストから​他人を​悪し様に​あしらってはならない​ことを​学びましょう。​私たちは​例外なく​全員が​神に​造られた​存在であり、​「神の​かた​どり、​神の​似姿」5なのですから。

自然徳

ある​種の​世俗主義的な​考え方と​敬虔主義と​呼ぶことのできる​考え方は​互いに​対立する​考え方ですが、​両者の​間には​ひとつだけ共通点が​見られます。​いずれも​キリスト者を​まともな​人間であるとは​考えない​ことです。​前者の​考え方は、​福音の​要請に​従うなら​人間の​資質が​窒息させられると​言い、​後者の​考え方は、​堕落した​人間は​信仰の​純粋さを​危うく​すると​主張します。​双方とも、​「言は​肉と​なって、​わたしたちの​間に​宿られた」6と​いう、​受肉の​秘義の​深い​意味が​理解できていません。

​ 人間と​して、​キリスト者と​して、​また​司祭と​しての​私の​経験に​照らしてみても、​事実は​その​反対です。​たとえ罪に​浸り​切っている​人でも、​ちょうど灰の​中の​埋み火のように、​高潔な​光を​心に​秘めているのです。​そのような​人たちと​一対一で​話し合い、​キリストの​言葉を​伝えると、​いつも​良い​反応が​あったから、​こう申し上げるのです。

​ 世の​中には、​神と​没交渉の​人が​多いのですが、​それは​神に​ついて​聞く​機会に​恵まれなかったか、​または​忘れてしまったかの​いずれかでしょう。​ところで、​そのような​人々にも​誠実で​忠実な​心構え、​憐れみ深く、​人間的に​まじめな​態度が​見られます。​このような​心構えを​もつ​人なら、​神に​対して​すぐに​心を​開く​ことができるはずだと、​私は​敢えて​断言したい。​超自然徳の​基と​なる​自然徳​(人間徳)を​身に​つけている​人々だからです。

ただし、​このような​自然的素養だけでは​救霊の​ために​充分であるとは​言えません。​キリストの​恩寵が​必要です。​正しい​生活態度を​守り​育むならば、​神が​道を​整えてくださる​ことでしょう。​人間と​して​立派な​生き方を​知る​人で​あればこそ、​聖人に​なることも​できるからです。

​ たぶん、​これとは​反対の​事実にも​気づいた​ことが​あるでしょう。​多くの​人が​自らを​キリスト者であると​言う。​洗礼の​秘跡を​受けており、​他の​秘跡にも​あずかっている。​しかし、​その​振舞いは​不誠実で​傲慢。​ほんの​わずかの​あいだ天​空​高く​光り​輝いたかと​思った​と​たんに​消えてしまう​流れ星のように、​たちまちに​して​倒れてしまう​人々の​ことです。

​ 神の​子と​しての​責任を​果た​そうと​努力する​私たちに、​神は​真に​人間的で​あれとお望みです。​頭は​天にまで​届かせ、​両足は​しっかりと​大地を​踏まえていなければなりません。​キリスト信者と​して​生きると​言っても、​人間である​ことを​やめ、​キリストを​知らない​人々の​も​つ​諸徳を​身に​つけるべく​努めなくても​よい、とは​言えないのです。​完全な​神であり、​同時に​完全な​人間である​キリストに​倣えと​いう、​主の​お望みに​応える​ために​日々​努力しなければなりません。​キリスト者とは​主の​御血で​贖われた​人間、​人間的であると​同時に​神的な​生き方を​するよう、​キリストが​強く​お望みに​なっている​存在ですから。

自然徳​(人間徳)の​うちで​どれが​最も​重要であるかを​決めるのは​難しい​ことです。​見方を​変えれば​変わりますし、​どれが​大切かを​考えても​あまり役に​立たないでしょう。​事実、​ある​特定の​徳だけを​実行すれば​よいと​いうわけでは​ありません。​徳は​相互に​関連していますから、​すべての​徳を​身に​つけ、​すべての​徳を​実行に​移すための​戦いが​必要です。​たとえば、​誠実であろうと​努力すれば、​喜びに​溢れ分別と​落ち着きを​もった​人、​正義の​人と​なる​ことができるのです。

​ 個人的な​徳と​社会的な​徳とを​区別する​考え方も​私は​納得できません。​自己愛を​満足させる​ための​徳など​ありえず、​いずれの​徳も​必然的に​自分と​周囲の​人々の​霊的善に​かかわっているからです。​神の​子である​人々が、​野心満々、​輝かしい​経歴を​得る​ために​のみ​生きる​ことなど​許されません。​皆が​もっと​連帯感を​持たねばならないのです。​恩寵の​世界では、​聖徒の​交わりと​いう​超自然の​絆に​よって、​すべての​人が​ひとつに​結ばれています。

​ 決心と​責任が​各自の​自由に​委ねられているからには、もろもろの​徳は​徹底的に​個人的な​もの、​パーソナルな​ものであると​言わねばなりません。​とは​いえ、​愛の​ための​戦いに​おいては、​決して​独りぼっちではなく、​お互いに​なんらかの​方法で​助け合い、​また​迷惑を​かけ合っています。​誰一人と​して​孤立した​存在ではなく、​皆が​ひとつの​鎖の​環を​作り上げています。​天国に​おいて​永遠に​主のみ​顔を​仰ぐ​日まで、​この​鎖が​主のみ​心に​しっかりと​繋ぎ止められているよう、​主なる​神に​お願い​したい​ものです。

剛毅、​沈着、​忍耐、​雅量

さて、​そろそろ​個々の​自然徳​(人間徳)に​ついて​考えてみましょう。​私が​話す間、​主と​語り合いを​続けてください。​受肉の​秘義の​意味を​より​深く​知る​ための​勇気を​お願いして​欲しいと​思います。​私たちも​また、​人々の​間で​主の​証人と​なって、​主が​人々の​救いの​ために​この​世に​おくだりに​なった​ことを、​世に​示すためです。

​ キリスト者の​生活だけではなく、​およそ​人間の​生活は​思った​ほど​簡単では​ありません。​確かに​予定通り事の​運ぶ時期も​ありますが、​あまり長続きしない。​生きるとは、​困難に​立ち向かい、​喜びや​苦しさを​味わう​ことです。​人間は​試練の​中で​忍耐強くも​逞しくもなり、​そうして​沈着と​雅量を​身に​つけてゆく​ものです。

​ 自らの​良心に​従ってな​すべきことを​知り、​これを​最後まで​果たす人、​そのような​人は​剛毅の​人と​言えます。​仕事の​価値を​自分の​得る​利益に​よってではなく、​常に​仕事を​通して​人々に​提供できる​奉仕の​値打ちに​よって​測る。​強い​人は、​時々苦しむことは​あっても、​抵抗します。​泣く​こともあるでしょう。​しかし​涙を​抑える​ことができ、​大きな​困難や​反対にも​屈する​ことはない。​マカバイ記の​一節を​思い出してみましょう。​神の​法を​破るより​死を​選ぶ老人エレアザルの​話です。​「男らしく​生を​断念し、​年齢に​ふさわしい者である​ことを​示し、​若者たちに​高貴な​模範を​残し、​彼らも​尊く​聖なる​律法の​ためには​進んで​高貴な​死に​方が​できるようにしよう」7。

 剛毅の​人は、​徳にかなった​行いの​効果を​見出そうと​焦慮にかられて​行動するような​ことは​なく、​何事に​対しても​忍耐強く​対処する。​強さに​よって、​自然徳​(人間徳)であると​同時に​神的な徳でもある​忍耐力を​培うのです。​「『自ら​耐え忍ぶことに​よって、​自分の​霊魂を​救わなければならない』​(ルカ21・19)と​あるように、​魂の​救いは、​すべての​徳の​源であり守り手と​しての​忍耐に​よって​全う​される。​私たちは​忍耐に​よって​自分の​魂を​救うが、​それは、​己に​打ち​勝つことを​学びながら、​自らを​所有するからである」8。​忍耐すれば、​より​深く​人々を​理解する​ことができる。​ちょうど​時と​共に​美味を​増す良質のぶどう​酒のように、​人々も​時とともに​著しく​進歩する​ことが​分かっているからです。

強くて​忍耐の​ある​人々には​落ち着きが​見られます。​しかし、​その​落ち着きは、​人々に​ついての​関心を​失ってしまったり、​万人の​責任である​世界中に​善を​広めると​いう​大事業に​興味が​もてなくなったりした​結果では​ありません。​落ち着いて​沈着な態度を​保つことができるのは、​いつも​赦す​ことを​知っているから、​何に​対しても​手だてを​見つける​ことができるからです。​何も​できないのは​死に​対してだけです。​とは​いえ、​神の​子に​とって、​死は​生命です。​沈着な​人でなければ、​少なくとも​理性的に​行動できるわけは​ない。​落ち着きを​保つ人なら、​考える​ことができる。​物事の​可否を​考慮し、​予定の​行動の​結果を​思慮深く​勘案する​ことができるのです。​そして​その後で、​穏やかに、​しか​し​きっぱりと​した​決断を​下すことができるでしょう。

これまで​いく​つかの​自然徳​(人間徳)に​ついて​考えてきました。​皆さんは​祈りながら、​ほかにも​多くの​徳に​ついて​思い巡らしている​ことでしょう。​私は​今しばらく、​素晴らしい​資質の​一つである​雅量と​呼ばれる​徳に​ついて​考えたいと​思います。

​ 雅量​(大度)とは、​多くの​事柄の​入りうる​広い心、​大きな​心の​ことです。​それは​また、​自分の​殻から​抜け出させてくれる​力であり、​人々の​ために​役立つ価値ある​事業に​とりかかる​ことができるように​してくれる​力でもあります。​狭量な​心を​はじめ、​けちや​打算や​利害関係を​伴った​騒ぎが​入り込む余地は​ありません。​雅量の​ある​人は、​やり甲斐の​ある​ものの​ためには​全力を​注ぐ。​それゆえ​自らを​捧げる​ことができるのです。​人に​何かを​与えるだけでは​満足せず、​自らを​与える。​ここまで​来ると、​神に​すべてを​捧げる​ことに​こそ、​雅量の​本領が​ある​ことが​理解できます。

勤勉と​精励

勤勉と​精励、​この​二つは​結局​一つに​なります。​いずれも、​神から​与えられた​才能を​十二分に​活用する​ため全力を​傾けると​いう​態度に​表れるからです。​二つとも​善徳です。​すべてを​最後まで​完全に​やり遂げるよう促すからです。​一九​二八年以来、​説き続けてきたように、​仕事は​決して​呪いではなく、​罪の​罰でもありません。​神に​逆らう前の​アダムに​対しても​神は​働く​ことを​お望みに​なったと​創世記に​書いてあります9。​神の​計画に​よると、​人は​常に​働く​ことに​よって​創造と​いう​広大な​わざに​参加するのです。

​ 勤勉な​人は​時間を​活用します。​「時は​金なり」と​いうよりも、​時は​神の​光栄であるからです。​果た​すべきことを​やり遂げる、​しかも、​決して​惰性や​時間潰しの​ためではなく、​注意深く​考えた上で​遂行する。​それゆえ、​勤勉は​同時に​精励であると​いうのです。​勤勉、​精励を​意味する​ヨーロッパ系の​言語は、​ラテン語の​愛する、​鑑賞する、​選び出すと​いう​意味を​もつ​動詞を​語源とします。​この​語源と​なる​動詞は​また、​細やかで、​研ぎ澄まされた、​注意深い​様子を​表しています。​ですから、​慌てずに、​愛を​込めて、​よく​働く​ことを​勤勉と​いう​わけが​分かります。

​ 完全な​人間である​主は、​地上での​生活で、​大工の​仕事を​選び、​細やかな​心遣いを​示してお働きに​なりました。​村人たちの​間で​一職​人と​して​仕事に​精進な​さったのです。​ご自分の​人間的、​神的な​仕事に​よって、​日常の​生活は​小さくて​価値の​ない​ものではなく、​神との​絶え​ざる​出会いの​場、​つまり​聖化の​場である、​とお教えに​なりました。​知的な​活動や​手仕事で、​神を​崇め称えなければならない​ことを​お示しに​なったのです。

信実と​正義

信実と​正義にかなった​生き方を​しようと​すれば、​絶え間ない​努力が​必要です。​自らの​安全が​危険に​さらされるような​情況の​中で、​長時間に​わたって、​信実な​態度を​維持するのは​難しい​ことだからです。​信実の​素晴らしさを​玩味してください。​信実は​すたれてしまった、​嫌な​ものを​好ましく​見せるような​外交的な​行動が​決定的な​勝利を​得ている、​とおっしゃるのですか。​真理を​恐れ、​つまらない​方​便に​走って、​誰一人と​して​真実を​語らず、​真理を​実行せず、​見せかけや嘘に​訴えている、​とおっしゃるのですか。

​ 幸いなことに、​そうでは​ありません。​キリスト者の​中にも、​キリスト者でない​人々の​中にも、たとえ​体面や​名誉を​犠牲に​してでも​真理を​守る​覚悟を​もった​人は​大勢います。​寄らば​大樹の​陰とばかりに、​大樹から​大樹へと​駆けずり回るような​ことはしません。​真実を​愛するが​ゆえに、​間違いを​犯せば​改める​ことのできる​人たちなのです。​嘘を​言い​始める​人や、​真理を​自らの​過ちを​覆い隠すための​単なる​言葉に​する​人は、​自らの​過ちを​正す​ことなどできないでしょう。

信実の​人なら​正義にかなう人であると​言えます。​正義に​ついて​述べる​ことには​倦むことを​知らない​私ですが、​ここでは、​自然徳​(人間徳)と​いう​しっかりと​した​基礎の​上に​真の​内的生活を​築く​ために、​いろいろ​考えている​ことを​心に​留めて、​簡単に​いく​つかの​点だけを​お話ししましょう。​正義とは​一人​ひとりに​その​人の​ものを​与える​ことですが、​それだけでは​不充分だと​思うのです。​各々は​神の​手から​出た​存在ですから、​正義が​要求する​こと以上を​与えねばなりません。​最高の​愛徳は​正義を​はるかに​越えます。​人目を​引く​ことなく​実行されるでしょうが、​天に​おいても​地に​おいても​豊かな​実りを​もたらします。

​ 中庸と​いう​表現を、​あたかも​倫理徳の​特徴であるかのように、​言い​換えれば、​実現可能な​ことの​半分ぐらいを​実行すれば​よい、と​いうような​意味にとるのは​誤りです。​中庸とは​欠如と​過度の​中間、​すなわち頂上・​最高と​いう​意味ですから、​賢慮​(賢明)の​徳が​示す​最高の​事柄の​ことです。​最も​善い点を​示します。​ところで、​対神徳に​関しては​「バランスを​とりながら…」と​いう​態度は​許されません。​信じすぎ、​望みすぎ、​愛しすぎ、と​いうような​ことは​ありえないからです。​神への​限りない​愛が​あれば、​自然に、​周りの​人々への​寛大さ、​理解、​愛徳に​溢れた​態度に​あらわれるでしょう。

節制の​実り

節制とは​自らの​主人である​ことです。​心と​体が​経験できる​ことを、​実際に​ことごとく​経験する​ことは​できません。​また、​たとえできると​しても、​すべてを​実行しなければなら​ぬと​いうわけでは​ありません。​自然の​衝動と​称する​ものに​引きずられる​ままに​なるのは​容易な​ことですが、​そうなると、​遂には、​悲しみに​襲われ、​自らの​惨めさの​中で​孤独を​かこつことに​なるでしょう。

​ 食したり、​見たり、​所有したりする​ことに​おいては​思いのままで、​何を​も拒まない​人が​います。​清らかな​生活を​送れと​いう​忠告を​無視し、​神の​業に​参与する​ための​気高い能力である​生殖機能を、わが​身を​満足させる​ための​道具であるかのように​みだりに​利用するのです。

​ ところで、​私は​不純な​ことに​ついては​口に​さえしたく​ありません。​節制のも​たら​す​実りに​ついて​述べる​ことにしましょう。​本当に​人間らしい​人間に​ついて​考察したいと​思います。​小鳥を​獲る​ための​罠に​使われるような​安光りする​価値の​ない​ものに​執着しない​人、​霊魂を​害する​ものから​離脱できる​人、​犠牲と​いっても​犠牲に​見えるだけである​ことに​気づいている​人、​このような​人々に​ついて​考えたいのです。​犠牲を​実行すれば、​多くの​隷属状態から​解放され、​心の​深奥で​神の​愛を​こと​ごとく​味わうことができます。

​ 心の​奥で​神の​愛を​味わうようになると、​不節制に​よって​言わばぼやけてしまった​生活が、​色合いを​取り戻します。​人々に​心を​配り、​自分の​ものを​分かち合い、​大きな​仕事にも​取りかかる。​節制に​よって、​飲食には​控えめで、​慎み深く​包容力の​ある​人に​なる。​魅力ある​慎みが​自然に​表に​あらわれる。​その​人の​行動は​知性に​導かれているからです。​節制は​偉大さを​示すのであって、​制限を​意味するのでは​ありません。​不節制であるが​ゆえに​不自由に​なると、​ブリキで​できた鈴のような​つまらない​響きに​すぐ​負けてしまいます。​価値の​ない​ものに​すぐ心を​奪われてしまうのです。

心の​知恵

箴言に​「心に​知恵が​あれば​分別ある​人と​いわれ​(る)」​10と​書いてあります。​万一、​臆病な​人や​小心な​人、​大胆さに​欠ける​人を、​分別や​賢慮の​ある​人であると​考えるなら、​分別とは​何かを​正しく​理解しているとは​言えないでしょう。​分別や​賢慮は​善に​向かう​習性とも​いうべき徳で、​目的を​明確にし、​目的に​到達する​ために​最も​ふさわしい​手段を​探す態度を​含んでいるからです。

​ しかし、​この​分別・賢慮が​最高の​徳と​いうわけでは​ありません。​常に​何の​ための​分別であるかを​自問すべきです。​利己主義の​ためや、​不正な​目的を​正当化する​ための​<ずる​賢さ>と​呼ぶに​ふさわしい​偽りの​分別も​あるからです。​<ずる​賢さ>を​上手に​使えば​使う​ほど、​その​人の​状態は​悪くなり、​正に​聖アウグスチヌスの​あの​咎めを​受けねばならなくなるでしょう。​「自分の​邪悪な​心に​合わせる​ために、​いつも​真っ直ぐで​正しい​神の​心を​まげようと​いうのか」11。​このような​態度は、​自分の​力を​過信して、​すべてを​正当化できると​思う​人の​偽りの​分別です。​聖パウロは​次のように​言っています。​「自分を​賢い者とう​ぬぼれては​なりません」​12。​「わたしは​知恵ある​者の​知恵を​滅ぼし、​賢い者の​賢さを​意味の​ない​ものに​する」13。

聖トマス・アクィナスは、​知性と​いう​良い​習性の​働きと​して、​三つの​点を​指摘しています。​つまり、​助言を​仰ぐ​こと、​正しく​判断する​こと、​決定を​下すこと14。​分別の​第一歩は、​自らの​限界を​認める​謙遜の​徳に​始まります。​自分だけで、​ある​特定の​問題の​すべてを​把握し、​数多くの​場面や​情況に​通暁する​ことは​できない​相談であると​認め、​判断を​下すときには​考慮すべき点を​見落とさないために​助言を​仰ぐ。​しかし、​誰に​助言を​求めても​いいと​いう​ものでは​ありません。​助言する​資格が​あり、​神を​愛し、​神に​忠実に​従う​真摯な​望みを​もった​人でなければならないのです。​単に​意見を​求めるのではなく、​公平で​正しい​助言の​できる​人に​導いて​もらわなければなりません。

​ その​あとで​判断を​下します。​分別・賢慮は、​ふつう​機敏で​適切な​決断を​要求するからです。​時には、​判断の​ための​諸要素が​すべて​揃うまで​決断を​差し控える​ことが​賢明であり、​また​ある​場合、​特に​人々の​善が​危険に​さらされている​ときには、​すべきことを​できるだけ早く​始めるのが​分別ある​態度に​なります。

この​心の​知恵、​つまり​分別が、​聖パウロの​言う​「肉の​思い」​15に​なるような​ことが​あっては​なりません。​知性を​もちながら、​神を​見つけ、​神を​愛する​ために、​その​知性を​活用しないような​ことが​あってはならないのです。​真の​分別が​ある​人なら、​神の​教えに​注意深く​聴き​入り、​救いの​約束と​実現を​受ける​ことができるでしょう。​「天地の​主である​父よ、​あなたを​ほめたたえます。​これらの​ことを​知恵ある​者や​賢い​者には​隠して、​幼子のような​者に​お示しに​なりました」16。

​ 心の​知恵は​他のもろもろの​徳を​治め、​そして​導きます。​分別と​賢慮の​ある​人は​無分別にならずに​大胆である​ことができる。​表には​出さないけれども、​安楽を​求める​心から​神のみ​旨に​従う​努力を​惜しむこともない。​分別の​ある​人、​賢慮の​人は​節制を​実行するにしても、​それが​無感覚や​厭世的な​ものであるとは​考えない。​分別の​ある​人の​正義には​温かみが​あり、​その​忍耐に​卑屈さは​みられない。

分別とは、​決して​間違いを​犯さない​ことではなく、​自分の​誤りを​正す態度の​ことです。​問題を​避けると​いう​楽な​方​法を​とるよりも、​むしろ度重なる​不手際を​意にも​介さず、​的確な​判断を​求める​努力を​する、​このような​人こそ分別ある​人と​言えます。​モノに​憑かれたかのように​大慌てで​仕事を​したり、​おど​おどしながら​働いたりは​しない。​決心した​結果、​困難が​襲ってくるかもしれないが、​その​責任は​自分で​負う。​的は​ずれな​ことに​なるのを​恐れて善獲得の​努力を​止める​こともない。​自分に​都合の​よい​ことばかりを​探し回るような​ことを​しない​人、​客観的で​熟慮型の​人に​出会った​とき、​そのような​人に​対しては、​ほとんど​本能的に​信頼してしまいます。​自惚れる​ことなく、​大げさな​身振りや​仰々しさもなく、​いつも​公正で​親切に​振舞う​人々だからです。

​ このように​真心の​こもった​徳は​キリスト者に​不可欠です。​しかし、​分別と​賢慮の​最終目標は、​摩擦を​招かないための​落ち​着きや、​社会的​協調性では​ありません。​分別の​根本は​神のみ​旨の​遂行に​あります。​主は​私たちの​単純さを​お望みですが、​決して​子供じみた​態度を​望んでは​おられない。​真実を​愛せよと​仰せに​なるが、​軽は​ずみで​浮ついた​態度を​とれとは​おっしゃらないのです。​聖書に​「知恵ある​人は​知識を​もつ」17と​書いてあります。​その​知恵とは​神の​愛の​こと、​決定的な​知恵、​救いを​もたらす知恵の​ことです。​このような​知恵が​あれば、​誰でも​平安と​理解の​実りを​得るだけでなく、​永遠の​生命を​受ける​ことができます。

平凡な​道

これまで​自然徳に​ついて​考えてきましたが、​皆さんの​中には、​「そうは​言っても、​このような​生き方を​するならば、​自分の​生活環境から​孤立してしまうのではないか、​また、​それは​現実離れした​事柄ではないだろうか」と、​問う​人が​いるかもしれません。​しかるに、​そのような​ことは​決して​ありえないと​申し上げます。​キリスト信者は​世間に​馴染まない​変人でなければならないとは、​どこにも​記されていません。​主キリストは​自然さと​単純さが​必要であると​教え、​また​その​模範を​示されました。​これらは​特に​私の​気に入りの​徳であると​申し添えて​おきましょう。

​ 主が​どのように​して​この​世に​おいでになったかを​思い出してください。​私たちと​同じように​お生まれに​なりました。​幼年時代と​青年時代を​お過ごしに​なった​パレスチナでは、​大勢の​村人の​ひとりでした。​公生活に​おいても、​ナザレの​村人と​変わらぬ生活が​色々な​機会に​あらわれます。​仕事に​ついて​お話しに​なる、​弟子たちが​休めるようにと​気遣われる​18、​誰とでも​付き合い、​誰とでも​語り合う。​付き従う​人々に​対しても、​近寄ろうと​している​子供たちを​妨げてはならない​19とおっしゃいました。​きっと​ご自分の​幼年時代を​思い出しながら、​広場で​遊ぶ子供たちの​例20を​挙げてお話しに​なったのでしょう。

​ これら​すべて、​ごく​当たり前で​自然な​情景では​ありませんか。​平凡な​生活の​中では​生きられないとでも​思う​人が​いるでしょうか。​とは​いえ、​人間は​ありきたりの​ことには​慣れに​陥ってしまい、​知らず知らずの​うちに​華やかで​技巧的な​ものを​追い​求める​ことは、​皆さんも​ご承知の​通りです。​たとえば、​切り​取ったばかりの​バラの​清楚な​花びらや​香りを​褒める​つもりが、​「まるで​ベルベットの​ようだ」と​言ったりします。

自然さと​単純さは​素晴らしい​自然徳(人間徳)で、​これらの​徳を​備えた​人なら​容易に​キリストの​使信を​受け入れる​ことができます。​複雑な​こと、​自己中心の​堂々​巡りの​状態に​巻き込まれると、​主の​声に​耳を​傾ける​ことは​難しくなります。​主が​なぜファリサイ派の​人を​責められたかを​思い出してください。​ファリサイ派の​人々は​薄荷、​いのんど、​茴香の​十分の​一税までも​払う​ことを​強要して​おきながら、​法と​正義と​信仰の​要求する​根本的な​義務を​放棄していました。​ぶよ​一匹さえも​漉して​除くが、らくだは​飲み込んでいたのです21。

​ イエス・キリストを​知っている​人で​卑俗な​生活を​営む者は​なく、​また、​キリスト者が​一風​変わった​生き方を​して​よいわけでもありません。​自然徳に​ついて​考えてきましたが、​いずれの​徳から​みても​同じ​結論が​引き出されます。​真の​人間である​ためには、​正直で​忠実、​強くて​誠実、​節制に​富み寛大、​正義にかない​冷静、​勤勉で​忍耐強く​あらねばなりません。​このような​生き方は​容易であるとは​言えない​ときも​あるでしょうが、​決して​変った​生き方ではないのです。​万一、​これを​聞いて​驚く​人が​いると​すれば、​その​人は​表には​あらわさないまでも、​臆病な​心や、​弱さに​曇った​目で​物事を​判断しているからに​違い​ありません。

自然徳(人間徳)と​超自然徳

以上のような​自然徳を​修めようと​努めるなら、​すでに​キリストに​近づいていると​言えます。​信徳・望徳・愛徳と​いう​対神徳と、​神の​恩寵と​共に​与えられる​他の​すべての​徳の​おかげで、​多くの​人々が​持っており、​自分も​身に​つけようと​努めている​これら​良い​素質を、​決してな​おざりに​してはならない​ことが、​キリスト者には​よく​理解できるからです。

​ 自然徳は​超自然徳の​土台であり、​超自然徳は​誠実に​徳の​進歩を​目差すための​力を​与えてくれると​いう​ことを、​重ねて​申し上げたい。​ところで、​いずれに​せよ、​これらの​徳を​身に​つけたいと​熱心に​望むだけでは​役に​立ちません。​実際に​徳を​実行しなければならないのです。​善を​行う​ことを​学ばなければならない​22。​つまり、​誠実で​正直、​冷静で​忍耐強い​人に​なる​ためには、​誠実な​行い、​正直な​態度、​公正な​判断、​冷静な​振舞い、​忍耐強い​生き方を、​実際に​実行に​移さなければなりません。​行いこそ、​愛なのです。​言葉だけでなく、​行いを​もって​誠実に​23神を​愛さなければならないのです。

キリスト者が​これらの​徳を​獲得する​ために​戦うならば、​その​人の​心は​聖霊の​恩寵を​受ける​用意が​できていると​言えるでしょう。​人間と​しての​良い​素質は、​慰め主の​お与えに​なる​霊感に​よってますます​強められます。​「霊魂の​甘美な客人」​24、​つまり、​三位一体の​第三の​ペルソナである​聖霊は、​上智、​聡明、​賢慮、​剛毅​(勇気)、​知識、​孝愛、​主への​畏敬25からなる​七つの​賜物を​お恵みに​なります。

​ そして、​内的喜びと​平安26、​自然徳である​喜びを​心に​感じる​ことができるのです。​お先真っ暗に​思えても、​実は​真っ暗では​ありません。​「あなたは​わたしの​神、​わたしの​砦」27。​主が​心の​中に​お住まいに​なれば、​たとえ非常に​重要に​思えても、もろもろの​事柄は​一時的で​儚い​ものに​過ぎず、​神の​うちに​いる​私たちこそ永続する​もの、​留まる​ものである​ことが​分かります。

​ 聖霊は、​孝愛の​賜物に​よって​神の​子である​ことを​確信できるよう助けてくださいます。​神の​子で​ありながら​どうして​悲しんでなどいられますか。​悲しみは​利己主義の​産物に​すぎません。​主の​ために​生きようと​望むなら、​たとえ、​自己の​過ちや​惨めさを​見せつけられた​としても​喜びを​失う​ことは​ないはずです。​喜びが​あると​いう​ことは​神を​愛している​証拠ですから、​祈りに​熱中し、​歌い出さずには​おられません。​歌う​ことは、​愛に​酔っている​人の​特徴ではないのでしょうか。

このような​生き方を​するなら、​世界の​平和を​もたら​すために​役立つ​働きが​できます。​神に​仕えるのは​楽しい​ことであると、​人々に​教える​ことができるのです。​「喜んで​与える​人を​神は​愛してくださる」28からです。​キリスト信者も​社会の​一員に​すぎませんが、​絶え​ざる​恩寵の​助けに​よって、​その​心から​天の​御父のみ​旨を​果た​そうとする​人の​喜びが​溢れ出ているはずです。​決して、​犠牲者意識を​持ったり、​拘束されていると​感じたりする​ことは​ありません。​常に​胸を​張って​歩みます。​人間には​違いないが、​同時に​神の​子であるからです。

​ すべての​人が​培うべき​これらの​自然徳に、​光を​与えて​輝かせてくれるのは、​私たちの​信仰です。​人間であると​いう​点に​おいて、​誰も​キリスト信者を​負かす​ことは​できません。​キリストに​従う者のみ、​人々が​感じとっているだけで​理解するまでには​至らない​事実を、​自分の​功徳ではなく​神の​恩寵に​よって​伝える​ことができる。​本当の​幸せ、​隣人への​真の​奉仕とは、​完全な​神であり、​完全な​人である​救い主の​聖心を​通して​のみ​実現できるのです。

​ 神の​手に​なる​最も​高貴な​御方、​聖母マリアの​御助けを​お願いしましょう。​私たちを​思慮深く​正直な​人に​してくださるように、​また、​恩寵の​中に​散りばめられた​これらの​自然徳が、​万人の​平和と​幸福の​ために、​共に​働いている​人々への​最大の​助けと​なりますように。

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