信仰

  ある​人々は、​一生を、​まるで​トンネルを​通り過ぎるかのように、​信仰と​いう​太陽の​輝きと​確かさと​暖かさを​知らないで​過ごす。

  サタンは、​なんと​破廉恥かつ露骨に​私たちの​カトリック信仰を​攻撃する​ことか。

​ けれども、​そのような​論争には​立ち入らず、​悪魔に​必ず​言おう。​「私は​教会の​子である」と。

  あなたは​巨大な​信仰を​感じている。​その​信仰を​お与えに​なる​御方は、​手段を​も​お与えに​なるだろう。

  使徒の​心を​持つあなたに、​聖パウロは、​「正しい​者は​信仰に​よって​生きる」と​言う。

​ ​その​信仰の​火が​消えかかっていると​いうのに、​何もしないで​いるのか。

  信仰。​これは​大勢の​キリスト者の​口から​幾度と​なく​出てくる​言葉であるが、​それを​行いで​示す人が​僅かしかいないのは​残念である。

​ 信仰の​徳は、​口に​出すための​もので、​実行する​ための​ものではないと​思っているようだ。

  あなたの​信仰を​増してくださる​よう、​主に​謙遜な心で​お願いしなさい。​そう​すれば​その後、​新たな​光を​受け、​諸々の​現世的な​道と、​使徒と​しての​あなたの​道との​違いを​正しく​見定める​ことができるだろう。

  福音史家は、​使徒たちの​脆くて​優柔不断な​信仰を​あらわに​する​出来事を、​なんと​謙遜かつ単純に​語る​ことか。

​ 最初の​使徒たちが後に​持つようになった​強く​揺るぎない​信仰を、​私たちも​持つことができると​いう​希望を​失わないためである。

  ​私たちの​カトリック信仰は、​なんと​美しいのだろう。​それは、​あらゆる​心配事を​解決し、​知性を​落ち着かせ、​心を​希望で​満たしてくれる。

  私は​〈奇跡マニア〉ではない。​あなたに​話したように、​私の​信仰を​しっかり​固める​ためには​聖なる​福音書に​ある​奇跡だけで​充分である。​ところで、​キリスト者で​ありながら、​信心深く、​〈よく​使徒職を​する​〉人までが、​特別な​道や​超​自然的な​出来事が​話題に​なるのを​聞いて​嗤うのを​見るに​つけ、​残念に​思わざるを​得ない。​そのような​人々には​言ってあげたい。​そう、​今も​奇跡は​起こる。​信仰が​あれば、​私たちにも​奇跡が​できると。

  あなたの​信仰に​火を​つけて​大きく​燃え​上がらせなさい。​キリストは​過去の​人物ではない。​歴史の​彼方に​失われる​単なる​思い出ではないのである。

​ キリストは​生きておいでになる。​聖パウロが​言う。​「イエス・キリストは、​きのうも​今日も、​また​永遠に​変わる​ことの​ない方」である、と。

  ​「もし、​からし種一粒ほどの​信仰が​あれば、…」。​からし種一粒ほどの​大きな​信仰さえ​あれば、…。

​ 先生である​キリストの​この​叫びには、​なんと​多くの​約束が​含まれている​ことだろう。

  神は、​常に​神である。​必要なのは​信仰の​人なのだ。​信仰の​篤い​人が​いれば、​聖書の​語る​奇跡が​繰り返し起こる​ことだろう。

​ ​「主の​手が​短くて​救えないのではない」、​神の​御手、​その​御力は​弱くなどなってはいない。

  信仰は​ないが、​迷信を​信じる​人が​いる。​あの​有力者の​態度を​見て笑うと​同時に、​バツの​悪い​思いを​した。​それ自体は​毒にも​害にもならない​言葉なのだが、​彼に​とっては​縁起の​悪い​言葉を​耳に​したり、​椅子が​クルクルと​回っているのを​目に​したりするだけで、​落ち着きを​失ってしまったからである。

  ​「信じる​者には​何でも​できる」。​これは​キリストの​言葉である。

​ どうしてあなたも、​使徒たちと​共に、​「わたしどもの​信仰を​増してください」と​申し上げないのか。

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