償い

  苦しみは祝されますように。苦しみは愛されますように。苦しみは聖とされますように…。苦しみは称えられますように!

  苦しみという〈科目〉を活用するための全プログラムを、使徒聖パウロが与えてくれる。「希望をもって喜び」、希望に支えられて喜びに満ち、「苦難を耐え忍び」、困難においては忍耐し、「たゆまず祈りなさい」、絶えず祈りなさいと。

  償い、これこそ永遠の生命への道である。

  あなたが謙遜で掘った深い穴に、償いによって、怠慢と咎と罪を埋めなさい。このように、農夫も腐った実や枯れ枝や落ち葉を木の根元に埋める。こうして不毛であったもの、むしろ有害であったものが、新たな肥沃さの因として力を発揮するのである。

失敗から前進のはずみを、死から生命を引き出しなさい。

  あなたの見ているキリストはイエスではない。それはせいぜい、濁った目が映し出す…、悲しくも、くすんだ姿に過ぎない。自らを清めなさい。謙遜と償いによってあなたの目の曇りを取り除きなさい。そうすれば…、愛である御方の清らかな光を受け、視力が完全になるだろう。その時に見える方こそ、真のイエスご自身である。

  イエスは御父のみ旨を果たすために苦しまれる…。あなたも師イエス・キリストの足跡に従って神の至聖なるみ旨を果たしたいと願っている。それなのに、苦しみが道連れになったからといって、不平を鳴らしていいのだろうか。

  あなたの体に言ってやりなさい。おまえの奴隷になるよりも、おまえを奴隷にするほうがいい、と。

  償いに対する人々の恐れようといったら、大変なものだ。もし、彼らが世間から良く思われるためにすることを、意向を正して神のために果たすなら…、なんと素晴らしい聖人や聖女になることだろう。

  泣いているのか。恥ずかしがらなくてもいい。泣きなさい。そう、一人きりで神のみ前にいる時、男であってもあなた同様に泣くものである。「夜毎、涙は床にあふれ、寝床は漂うほどです」と、ダビデ王は言っている。

その男らしく熱い涙であなたは自分の過去を清め、今の生活を超自然的にすることができるのである。

  この世で幸せになってほしいが、苦しみに対するそのような恐れを捨て去らない限り、あなたは幸せになれないだろう。〈旅人である〉間は、正に苦しみのうちにこそ幸せがあるのだから。

  永遠の生命のために生命を失う。なんと麗しいことだろう。

  それら肉体的あるいは精神的な苦しみが、清めに役立ち、功徳になることを知っているのだから、感謝して受け入れなさい。

  施しに感謝したり、施しを願ったりする物乞いが、「神があなたに健康をお恵みになりますように!」と言うことがあるが、あなたは、体の健康が唯一の望みであるかのように聞こえ、後味の悪い思いをするのではないだろうか。

  自発的な償いを寛大に捧げるなら、イエスが私たちを恩寵(恩恵)で満たしてくださり、お送りになる償いを愛することができるようになる。

(記憶や想像など)諸能力が意志に反抗して祈りの邪魔をするならば、償いとして、自ら進んで五感の犠牲を実行しなさい。

  絶え間ない犠牲の伴わない償いは、なんとわずかな値打ちしかないことか。

  償いを、永遠の生命を得るために役立つ償いを、あなたは恐れるのか。人々は現世のはかない生命を保つために、無数の残酷な手術の苦しみに身を委ねるというのに。

  あなたの最大の敵はあなた自身である。

  自分の体は、愛を込めて扱いなさい。ただし、その愛は、裏切り者である敵を愛するときの愛を超えてはならない。

  自分の体が、あなた自身の敵であり、あなたの聖化の敵であるがゆえに、神の栄光の敵でもあることを知っているのに、なぜ体をそんなに優しく扱うのか。

「楽しい午後をお過ごしください」と、習慣通りの挨拶を受けた。すると、真に神の人であるあの人は、「なんてちっぽけな望みだろう」と言ったのだった。

  あなたと一緒なら、イエス様、苦しみはなんと快く、闇はなんと光り輝いて見えることでしょう。

  苦しんでいるのか。イエスの御心は私たちの心のように小さくはない。あなたは苦しんでいるのか? そのほうがいいのだ。

  厳格な断食はたいそう神に喜ばれる償いである。それも色々な理由で緩和されてきた。だからこそ、逆に、指導者の許可を得てひんぱんに断食を実行しなさい。

  償いをする理由を尋ねるのか。罪の償い、謝罪、祈願、感謝のため、前進するため、私のため、あなたのため、人々のため、祖国のため、教会のため…。他にもたくさんの理由がある

  指導者が同意する以上の償いは、しないほうがいい。

  苦しみを精神の働きの適切な場に置く、つまり〈償い〉として捧げるなら、それを気高いものにすることができる。

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