困難・苦難

  迫害の嵐はよいものである。何が失われるだろうか…? すでに失われたものを、失うおそれはない。木が根こそぎにされない限り、落ちるのは枯れ枝だけである。ところで、風であれハリケーンであれ、教会という木を根こそぎにすることはできない。そして、枯れ枝はとっくに落ちてしまった枝なのだ。

  あの人はあなたに対して悪いことをした。それは認めよう。しかし、あなたは神に対してもっと悪いことをしたのではないのか。

イエスよ、あなたがお通りになった所では、どこでも、誰も無関心ではいられませんでした。あなたは愛されるか、憎まれるかのいずれかでした。

使徒である人物が、自らの義務を果たしながらあなたに付き従うとき、あなたの場合と同じように、嫌悪の、あるいは愛情のざわめきを巻き起こしたからといって、私は驚きません。その人はもう一人のキリストなのですから。

  まただ…。人がこう言った、ああ書いた…。賛成、反対…。善意、そして善意の不足…。皮肉と中傷、賛辞と称賛…。愚行だとか成功だとか…。

馬鹿者、何たる大馬鹿者であることか。

頭も心も神に酔い、目的に向かってまっしぐらに進んで行くのに、風のうなりや蝉の声、牛の鳴き声、豚の呻き、馬の嘶きなど、あなたにはどうでもいいことではないのか。

そのうえ…、それは避けられないことである。畑の真ん中に戸を建てて何になるというのだろう。

  彼らはやたらに毒舌を吐き始めた。予想していなかったので、あなたは余計に傷つけられた。

あなたの超自然的な反応は、赦すこと、さらに赦しを願うことでなければならない。そして、この経験を生かして、被造物から離脱するのだ。

  苦しみや軽蔑…十字架が身に振りかかってきたときには、こう考えるべきである。私が当然受けるはずのものに比べれば、取るに足りないことではないか、と。

大きな困難に出遭い苦しんでいるのか。ひどい逆風の最中なのか。さあ、ごくゆっくりと、よく味わいながら、次の力強く雄々しい祈りを唱えなさい。

「神のいと正しく、いと愛すべきみ旨は、万事に越えて行われ、全うされ、賛美され、永遠に称えられますように。アーメン。アーメン」。

あなたが必ず平和を取りもどすと保証しよう。

  この世の人生は…、辛いと、あなたは思い悩んでいる。しかし、それは短い…夢のようなものだ。喜びなさい。父なる神はあなたを深く愛しておられる。あなたが邪魔をしない限り、この悪夢のあとで素晴らしい目覚めをお与えになるだろう。

  あの厚意に感謝してくれないので、あなたは悲しんでいる。次の二つの質問に答えてみなさい。あなたはキリスト・イエスにどれほど感謝していると言えるのか。その厚意は、この世で感謝してもらえると思ったから、実行できたのか。

  あなたが驚く理由が分からない。いつだってキリストの敵は理に適わぬ考えをするものなのだから。

ラザロがよみがえった時、彼らは脱帽してイエスの神性を告白すべきであった。しかしそれどころか、生命を与える者を殺そうと言ったのである。

今も昔も変わらない。

  戦いと困難のとき、恐らく〈善良な人々〉が無数の障害物を置いてあなたの道の邪魔をするときには、使徒としての心をあげ、からし種とパン種の話をなさるイエスに耳を傾けなさい。そして使徒たちのように、「たとえ話の意味を説明してください」とお願いしなさい。

すると、やがて手に入れる勝利を眺めて喜びに浸るだろう。今始めたばかりの使徒職という木に宿る空の鳥と、膨れあがった練り粉全体が見えることだろう。

  苦難を弱気で受けるなら、喜びと平和を失い、その苦しみから何らの霊的利益も引き出せないことになる。

  あの公の出来事によって、あなたは自発的に姿を消さなければならなかった。その状況から判断すると刑務所に収監されるよりも辛かっただろう。あなたは、自分の人格の影が薄くなったことに苦しんだ。

八方ふさがりだ。あるものといえば、利己主義と好奇心、無理解と陰口だけ。よろしい、ところで、それがどうしたと言うのか。あなたの意志の完全な自由と〈幼子〉としての力を忘れたのか。葉と(外的な活動)がないからと言って、根(内的生命)の成長と活動までなくなったわけではない。

仕事を続けなさい。やがて事態は好転するだろう。そして、前よりもっと多くの、そして、もっと風味に満ちた実を結ぶことだろう。

  叱られたのか。高慢心に負けて腹を立ててはならない。むしろ、こう考えなさい。なんという思い遣りだろう。他にも言わずに辛抱してくれていることがたくさんあったはずなのに。

  十字架と労苦と艱難。それらは生きている限り避けられないものだ。キリストはこの道をたどったのであり、「弟子は師にまさるものではないのである」。先生に勝る弟子はいないのである。

  確かに、外部からのプレッシャーとの戦いが多いのは認める。だから、何がしかの言いわけは認められよう。しかし、落ち着いて考えれば分かるように、自分の中にも共犯者がいるのだから、その点で、言い逃れはできないのである。

  師であるキリストが、ぶどうの木とその枝の譬え話をされるのを聞かなかったのか。それを思い出して慰めにしなさい。キリストが要求なさるのは、あなたが実を結ぶはずの枝だからである…。あなたが刈り込まれるのは、もっと豊かな実を結ぶためである。

勿論、そのように切られ、引き抜かれれば痛い。しかしその後、果実はなんと瑞々しく、行いはなんと成熟したものになることか。

  あなたは不安になっている。次のことを考えなさい。内的生活と周囲の世界にどんなことが起こっても、出来事や人物の重要性は極めて相対的である。落ち着いて、時の経つのを待ちなさい。その後、遠くから心静かに事件や人物を見ることによって、全体を眺めることができるようになるだろう。すると、各々の事柄をあるべき場所におき、真の大きさで見ることができる。

このようにすれば、もっと公正な人となり、もっと多くの心配事を避けることができるのである。

  この世の一生は安宿で過ごす嫌な一夜のようなものである。これはアビラの聖テレジアの言葉だと言われている。

実に的確な比喩だと思わないだろうか。

  有名な観想修道院を訪問した時の話。貧しい建物を見たある外国婦人が、胸を締め付けられるような思いに駆られて言った。「ほんとうに厳しい生活を送っておいでなのですね」。すると、満足げな修道士は、ただこう答えただけだった。「修道者よ、自分が求めた生活だ。お前が望んだのだから、しっかり自分のものにしよう!」

この聖なる人の言葉を聞いて、私は嬉しかった。しかし、幸せでないと言うあなたには、同じことを、悲しい心で言わなければならない。

  不安なのか? 決して、不安に陥ってはいけない。それは心の平和を失うことだから。

  肉体的な衰弱。あなたは…疲れ果てているのだ。休みなさい。その外的活動を中止しなさい。医者に相談し、その指示に従いなさい。そして、心配はやめよう。

まもなくあなたは普通の生活に戻るだろう。そして、忠実であれば、使徒職は前よりももっとうまく行くだろう。

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