キリスト者の希望

1968年5月8日


ずいぶん昔の​ことになりますが、​そのころ​日毎に​深まっていた​確信を​次のように​書き記しました。​「万事を​イエスに​希望しなさい。​あなたは​何も​持たず、​何の​値うちもなく、​何も​できない。​主に​すべてを​お任せするなら、​主が​すべてを​成し遂げてくださるだろう」1。​ それから​かなりの​年月が​経ちましたが、​この​確信はますます強まり、​一層​深くなるばかりです。​道を​歩んでゆく​間には、​苦しみ、​それも​時には​大変な​苦しみに​遭うことが​あるでしょう。​けれども、​そのような​時で​さえ、​神に​希望を​おくなら、​がっかりして​力を​落とすことなく、​かえって​素晴らしい​愛の​火を​燃え立たせ、​生き​生きとした​生活が​送れる​ことを、​大勢の​人々の​生き方の​中に​垣間見てきました。

​ ミサの​書簡を​朗読して、​心を​強く​揺り​動かされました。​皆さん方も​同じように​感動した​ことと​思います。​神が​使徒の​言葉を​使って​教えてくださった​おかげで、​三つの​対神徳が​神的な​骨組みを​どのように​して​作り上げているかを​黙想する​ことができます。​この​三つの​対神徳こそ、​正に、​キリスト者の​真の​生活を​打ち建てる​屋台骨なのです。

​ もう​一度、​聖パウロの​言葉に​耳を​傾けてみましょう。​「わたしたちは​信仰に​よって​義と​されたのだから、​わたしたちの​主イエス・キリストに​よって​神との​間に​平和を​得ており、​この​キリストの​お陰で、​今の​恵みに​信仰に​よって​導き​入れられ、​神の​栄光に​あずかる​希望を​誇りに​しています。​そればかりでなく、​苦難を​も誇りとします。​わたしたちは​知っているのです、​苦難は​忍耐を、​忍耐は​練達を、​練達は​希望を​生むと​いう​ことを。​希望は​わたしたちを​欺く​ことがありません。​わたしたちに​与えられた​聖霊に​よって、​神の​愛が​わたしたちの​心に​注がれているからです」2。

今、​聖櫃の​中から​私たちを​見守っておられる​神のみ​前で​―イエスが​近くに​いてくださるので​力強い​限りですから​―魂を、​喜び、​それも​「希望の​喜び」3で​満たす神の​甘美な賜物、​希望の​徳に​ついて​黙想しましょう。​忠実を​保てば、​神の​無限の​愛を​受ける​ことができるはずですから。

​ 私たち全員、​つまり​私たち一人​ひとりに​とって、​この​地上には​二通りの​生き方しかない​ことを​忘れないでください。​一つは、​神を​お喜ばせする​ために​内的戦いを​続ける​神的な​生き方、​もう​一つは、​見た​ところ​人間の​ようだが、​神を​排除している​ために​動物的としか​言いようの​ない​生き方です。​信仰を​もたない​ことを​誇りに​するような​<似非聖人>には​感心できません。​もちろん​そういう​人たちを​も​私は​心から​愛しています、​兄弟である​すべての​人を​愛するのと​同じように。​ある​面では​英雄的とも​言える、​その​人々の​よい​意志を、​賞賛するに​吝かでは​ありません。​しかし、​同情の​念を​禁じ得ない​ことも​事実です。​彼らは、​神の​光と​熱、​そして​神の​希望から​生まれる​揺るぎない​喜びである​<対神徳>を​欠いていると​いう​点で、​この​上なく​不幸な​状態に​いるからです。

​ 信仰に​即して​生きる​真摯な​キリスト者なら、​超自然的な​見方を​保ち、​神のみを​見つめながら​生活します。​愛すべき社会の​中で、​何事に​つけ努力を​傾けるが、​常に​目は​天に​向けている。​聖パウロは​こう​断言しています。​「上に​ある​ものを​求めなさい。​そこでは、​キリストが​神の​右の​座に​着いておられます。​上に​ある​ものに​心を​留め、​地上の​ものに​心を​引かれないようにしなさい。​あなたがたは​死んだのであって」、​つまり、​洗礼を​受けて​この​世的な​ものに​死んだのであって、​「あなたが​たの命は、​キリストと​共に​神の​内に​隠されているのです」4。

地上的な​希望と​キリスト教的な​希望

​「希望とは、​すべてを​失くした​あとで​失う​もの」と​いう​使い古された​格言は、​大勢の​人々の​口に​の​ぼります。​あたかも​希望が、​良心の​焦躁や​迷いを​忘れて生活する​ための​口実でしかないかのように。​あるいは、​良くない​行いを​正す​ことや​貴い​目標を​目指す​こと、​そして​何よりも​神との​一致と​いう​最高の​目標に​向かって​戦う​ことを、​永久に​延期する​ための​格好の​方便であるかのように。

​ これは​希望と​安逸との​混同に​ほかなりません。​本音を​言えば、​霊的な​善か​正当な​物的善かを​問わず、​そも​そも​真実の​善を​獲得せんと​する​熱意に​欠けています。​過もなく​不足も​ない​生活、​つまり、​生温い​見みせかけだけの​安定を​最高目標と​定め、​是が​非でも​その​安定を​守り通そうとする。​臆病で​怠惰な​おどおどした心は、​巧妙に​働く​利己主義に​負けて、​日々、​年々を、​大きな​望みを​持た​ぬかわりに、​恐れに​襲われる​こともなく​過したいと​思う。​大志を​抱いて​努力したり、​希望と​不安の​うちに​戦ったりする​ことを​嫌って、​何が​なんでも​恥と​涙は​避ける。​値打ちある​ものを​得ようと​すれば、​当然ながら​必要と​なる​努力と​犠牲を​このように​恐れ、​価値ある​ものを​獲得したいと​いう​希望まで​捨ててしまっては、​目的を​達成する​ことなど​到底できない​ことでしょう。

​ 反対に、​希望を​素朴な​空想であるかのように​思い、​時には​それが​文化的で​科学的な​考えであると​さえ​見せかけるが​ごとき​浅薄な​態度を​とる​人もいます。​誠実に​自己と​対決し、​断固と​して​善を​行う​態度を​とることができず、​希望するとは、​困難の​多い​人生の​悲哀を​前に​して、​一つの​夢、​ユートピア、​単なる​慰めを​追うことに​過ぎないと​考えているわけです。​そのような​偽りの​希望を​抱いた​ところで​何の​足しにもならないと​いうのに。

ところで、​このように​臆病な​人や​軽薄な​人が​氾濫している​世の​中にも、​超自然的動機は​持たないけれど博愛の​精神から​高潔な​理想に​動かされ、​困っている​人を​助ける​ために​あらゆる​困難に​立ち向かい、​骨身を​けずって​寛大に​奉仕する​善意の​人は​大勢います。​高潔な​理想の​ために​敢然と​働く​この​人々の​頑張りを​見るに​つけ、​私は​敬いの​念、​時には​賞賛の​念にかられる​ほどです。​しかし、​今の​私の​務めは​大切な​ことを​思い出してくださる​よう​お願い​する​ことでした。​人間が​この​世で​進める​事業が​単に​人間の​ためだけの​ものなら、​いずれ​消えゆく​運命を​担って​生まれた​と​言っても​言い​過ぎではないでしょう。​次の​聖書の​言葉を​黙想してください。​「しかし、​わたしは​顧みた、​この​手の​業、​労苦の​結果の​ひとつ​ひとつを。​見よ、​どれも​空しく、​風を​追うような​ことであった。​太陽の​下に、​益と​なる​ものは​何もない」5。

​ すべては​このように​儚いと​いっても、​希望が​消えてしまうわけではない。​それどころか、​地上の​あらゆる​事業は​儚くも​消えゆく​ものであると​認めればこそ、​私たちの​仕事は​本物の​希望に​つながり、​人間の​仕事すべてが​高められて神との​出会いの​場に​変わる。​こうして​仕事は​永遠の​光に​照らされ、​幻滅の​暗闇を​追い​払ってくれるのです。​ところが、​万一、​その​儚い​事業を​唯一最高の​目的であると​考え、​自らの​永遠の​住居や​人間が​造られた​目的、​つまり主を​愛し、​礼拝し、​後に​天国で​主を​所有すると​いう​目的を​忘れてしまったならば、​いかに​輝かしい​事業も、​裏切りや​時には​人間を​卑しく​する​手段に​なり果ててしまう。​神を​知らずに​苦しみ、​神の​ほかに​幸福を​見つけようと​あく​せくした​聖アウグスチヌスの、​あの​有名な​本音の​叫びを​思い出してください。​「主よ、​あなたは​私たちを​あなたに​向けて​造りたまい、​私たちの​心は​あなたに​憩うまで​安らぎを​得ません」6。​この​世に​生きる間、​飽かす​ことなく​満足させる​神の​愛を​目的と​せず、​偽りの​希望に​騙される​ほど​不幸な​ことは、​たぶん​ほかに​ないでしょう。

​ 皆さん方も​同じであって​欲しいのですが、​私は、​自分が​神の​子であるとはっきり​知り、​自覚する​とき、​本当の​希望に​満たされます。​希望は​超自然の​徳です。​けれども、​人間に​注入されると​私たちの​本性に​ぴったりと​合いますから、​非常に​人間的な​徳でもあります。​最後まで​忠実を​保てば​必ず​天国に​到着する​ことができますから、​私は​幸せ者です。​天国で​手に​入れる​幸せを​考えると、​本当に​嬉しくなります。​「恵み深い神」7、​限りなく​善い方、​限りなく​慈しみ深い​御方です。​この​確信の​おかげで、​神の​足跡を​留める​ものだけが​永遠を​指し示す道標であり、​その​価値は​不朽である​ことが​容易に​理解できます。​希望の​徳を​もつからと​いって、​地上の​物事から​離れてしまうはずは​ない。​それどころか、​この​世の​現実を​新しい​面から、​キリスト的な​色合いのもとに、​見る​ことができるようになる。​あらゆる​ものの​中に、​堕落した本性と​創造主で​あり贖い主である​神との​関係を、​見つけ出すことができるのです。

何に​希望するのか

ひょっと​すると、​一人ならず​自問する​人が​あるかも​知れません。​キリスト者は​いったい、​何を​希望しなければならないのだろう。​懸命に​なって​愛と​幸福を​追求する​心に、​この​世は​たくさんの​快い​ことを​与えてくれるではないか。​それだけでなく、​私たちは​平和と​喜びを​惜しみなく​<撒き散らし>たい。​自分だけ​うまく​いっても​満足する​ことは​できず、​周りの​人々皆を​幸福に​したいのだと。

​ 一応立派そうでは​あるが​薄っぺらな​見方で、​儚くも​消えゆく​理想のみを​追い​求め、​キリスト者の​夢が​最上の​高み、​つまり、​永遠を​目指している​ことを​忘れている​人が​あるのは​残念な​ことです。​私たちは、​神の​愛その​ものが​欲しい、​終わる​ことの​ない​喜びを​もって​神を​堪能したいと​思っています。​この​世の​事柄は​すべて、​世の​終わりの​到来と​共に​消え去ってしまう。​この​ことは​色々な​経験で​確認済みです。​一人​ひとりの​人間に​とってみれば、​世の​終わりを​待つまでもなく、​死とともに​すべては​過ぎ去ります。​富も​栄誉も​墓までは​ついて​来てくれません。​だから​こそ、​希望の​翼に​乗って、​心を​神に​上げて​祈る​ことができるようになるのです。​「主よ、​御もとに​身を​寄せます。​とこしえに​恥に​落とすことなく、​恵みの​御業に​よって​わたしを​助けてください」8。​主よ、​あなたに​希望を​託します。​今も、​いつも、​世々に​至るまで、​あなたの​御手で​わたしを​お導きください。

私たちが​造られたのは、​この​世に​最終的な​神の​国を​建てる​ためでは​ありません9。​「この​世は、​苦しみの​ない​住居である​もう​一つの​世界への​道である」10からです。​だからと​言って、​私たち神の​子が​この​世の​諸活動に​無関心で​いるわけには​ゆきません。​神は​諸活動の​直中に​私たちを​お置きに​なりましたが、​それは、​この​世の​諸活動を​聖化し、​その​中に​聖なる​信仰を​浸透させる​ためです。​信仰のみが、​真実の​平和と​喜びを、​人々の​心の​中や​その​他色々な​環境にもたらすことができます。​これは​一九二八年以来​絶えず​説き続けてきた​考えです。​社会の​キリスト教化を​急が​なければなりません。​社会の​あらゆる​階層に​超自然的感覚を​植えつけ、​一人​ひとりが​互いに​日々の​義務、​仕事、​職務を、​恩寵の​レベルにまで​高めなければならないのです。​こうして​初めて、​人々の​職業は​すべて​新たな​希望に​照らされ、​時間を​超えて、​衰えを​知らぬものとなるでしょう。

​ 洗礼を​受けた​私たちは、​傷ついた​心を​癒して​鎮め、​そして​力づける、​キリストの​言葉の​運び手と​なりました。​主が​私たちの​中で​自由に​お働きに​なることができるよう、​常に​戦う​心構えを​示すべきです。​たとえ、​無能で​弱い​自分を​思い知り、​惨めさと​弱さが​肩に​重くの​しかかるのを​感じても、​神の​助けと​神ご自身に​希望を​託しております、​と​繰り返さなければなりません。​必要なら、​「希望する​すべも​なかった​ときに、​なおも​望みを​抱いて、​信じた」11アブラハムのように。​これが​できれば、​熱意を​新たに​して​働き、​そして​憎しみや​心配事、​無知や​無理解、​悲観的見方を​うち捨てて​泰然自若と​して​生きようと、​人々に​教える​ことができる。​神に​不可能は​ないからです。

いま自分の​いる​ところで、​<警戒心>を​解いてはいけないと、​主は​お勧めに​なります。​この​勧めを​知ったからには、​心を​聖性への​希望で​満たし、​さらに​行いに​表さなければなりません。​「わが​子よ、​あなたの心を​わたしにゆだねよ」​12と、​神は​耳もとで​囁いておられます。​砂上の​楼閣を​築くような​ことは​止めて、​きっぱりと​した​態度で​心を​神に​打ち明けなさい。​希望を​固く​保ち、​隣人に​善を​施そうと​すれば、​主を​基盤に​する​ほかに​方法は​ありません。​自分​自身と​戦わないなら、​高慢、​嫉妬、​目と肉の​欲、​自己満足、​放縦への​醜いまでの​飢えなど、​心に​巣食う​敵を​徹底的に​追放しないなら、​つまり、​内的戦いを​続けないならば、​いかに​高潔な​理想とは​言え、​「草花のように​滅び去るからです。​日が​昇り熱風が​吹きつけると、​草は​枯れ、​花は​散り、​その​美しさは​失せてしまう」13ことでしょう。​そうなると、​ほんの​わずかの​隙間から​でも、​落胆と​悲しさが​毒草のように​芽を​吹き出します。

​ イエスは、​曖昧な​返事では​満足なさらない。​毅然と​して​一歩も​譲る​ことなく​困難に​立ち向かえと​要求される。​また、​そのように​要求する​権利を​もっておられ、​断固とした​具体的な​歩みを​求められます。​漠然とした​決心など役に​立ちません。​決心も​具体的でないなら、​ごまかしの​夢であって、​心に​感じる​神の​呼びかけを​無視する​ことになってしまう。​そのような​決心は、​熱も​光も​伝えず、​灯った​途端に​儚くも​消え去る​鬼火のような​ものです。

​ と​いうわけで、​決然とした​歩みを​見せない​限り、​あなたの​決心が​真剣な​ものであるとは​思えません。​日常の​仕事に​対する​態度を​たびたび振り返り、​善を​行い​続けなさい。​疲労困憊して​体が​折れるように​感じる​ときにも、​自分を​取り巻く​環境の​なかで​正義を​実行してください。​周囲の​人々に​幸せを​もたらすことのできるよう、​職場で​喜びを​ふりまき、​仕事を​より​よく​仕上げる​努力を​続け、​理解と​微笑み、​言い​換えれば、​キリスト者に​ふさわしい​態度を​示す。​これら​すべてを、​神の​ため、​神の​栄光を​考え、​顔を​天に​向けて、​最終的な​祖国を​熱望しながら、​果たしてください。​最終的な​祖国こそ、​総力を​あげて​向かうに​ふさわしい​目標ですから。

すべてが​可能

内的戦いを​続けない​人には、​キリストを​知り、​キリストを​愛し、​キリストと​ひとつに​なりたい、​などと​言って​欲しくない。​キリストに​従い、​神の​子と​して​振舞うと​いう​正道を​歩むなら、​必ず聖なる​十字架に​突き当たる。​ところで、​この​十字架こそ、​主との​一致を​望む者に​とって​希望の​基礎である​ことを​よく​考えなければなりません。

​ このような​生き方が​容易でない​ことを、​前もって​断って​おきます。​主が​お示しに​なる​生き方を​しようと​すれば​努力が​要求されると​いう​ことです。​聖パウロが、​イエスのみ​旨を​果たすに​当たって​遭遇した​事件と​苦しみを​列記していますから、​それを​読み上げてみましょう。​「ユダヤ人から​四十に​一つ​足りない​鞭打ちを​受けた​ことが​五度。​ローマ兵から​鞭打たれた​ことが​三度、​石を​投げつけられた​ことが​一度、​難船したことが​三度、​外海で​一昼夜​漂流したこともありました。​しばしば​旅を​し、​川の​難、​盗賊の​難、​同胞からの​難、​異邦人からの​難、​町での​難、​荒れ野での​難、​偽兄弟からの​難に​遭い、​苦労に​苦労を​重ね、​度々眠らずに​過ごし、​飢え​渇き、​しばしば​食べずに​おり、​寒さに​凍え、​裸で​いた​こともありました。​これに​加えて​色々な​ことが​あったうえに、​日々わたしに​降りかかる​心配事、​あらゆる​地方の​教会に​対する​気苦労が​あります」14。

​ 主との​話し合いの​間に​現実を​直視したい​ものです。​新説を​打ち出したり、​大げさな​自己放棄や​英雄的行為を​夢みたりしても、​そのような​機会は​訪れませんから、​無駄だと​思います。​大切なのは、​浪費しが​ちな​時間を​活用する​こと。​時間は​キリスト教的な​見方から​言えば、​後の​世で​与えられる​栄光の​「前金」であって、​純金以上に​高価な​ものです。

​ 日常生活を​営むに​あたり、​サウロの​一生に​起こった​ほど、​数多くの​恐ろしい​障害に​出遭う​ことは​まずないでしょう。​せいぜい​卑しい​利己心や​繰り返し襲ってくる​情欲、​無用の​高慢心、​無数の​失敗や​弱さなどに​行き当たる​程度でしょう。​しかし、​がっかりする​ことは​ありません。​聖パウロに​心を​合わせて​主に​申し上げましょう、​「わたしは​弱さ、​侮辱、​窮乏、​迫害、​そして​行き詰まりの​状態に​あっても、​キリストの​ために​満足しています。​なぜなら、​わたしは​弱い​時に​こそ​強いからです」15。

時には、​すべてが​予想に​反した​展開を​みせるので、​「主よ、​すべて、​何もかも​崩れてしまいます」と、​思わず口に​出してしまう。​すぐに​意向を​正しましょう。​「私は​あなたと共に​前進します。​あなたは​力その​もの、​『あなたは​わたしの​神、​わたしの​砦』​16ですから」と。

​ 皆さんに​お願いしました。​仕事中、​何度も​目を​天に​上げるよう辛抱づよく​努力してください、と。​希望を​持ちさえ​すれば、​超自然的見方を​失わせまいと​差し​伸べてくださる​神の​強い​腕にしが​みつく​ことができる。​欲情が​反乱を​起こすとき、​自分と​いう​小さい​世界に​こもってしまう​とき、​あるいは​幼稚な​虚栄心に​取り付かれて​自分が​宇宙の​中心であるかのように​考える​ときにも、​同じように​目を​天に​上げましょう。​天を​見上げる​ことも​せずイエスと​離れていては​何も​できない​ことを、​私は​よく​承知しています。​「わたしを​強めてくださる​方の​お陰で、​わたしには​すべてが​可能です」​17と​繰り返し叫ぶなら、​内外の​敵に​打ち​勝つための​強さを​身に​つける​ことができます。​私たちが神を​捨てない​限り、​神が​ご自分の​子供を​お見捨てになるような​ことは​ありえません。

弱さと​赦し

主が​すぐ​近くまで​来てくださったので、​私たちは​皆、​高尚な​ものへの​飢えを​感じ、​高みに​上りたい、​善を​行いたい、と​強く​あこがれる。​私が​今あなたの心に​ある​このような​望みを​煽るのは、​神の​働きかけに​信頼して​欲しいからです。​神の​働きを​妨げない​限り、​今いる​場所で、​思いも​よら​ぬ働きのできる​良い​道具に​なりうる。​臆病風に​吹かれて神の​信頼を​裏切らないためにも、​キリスト者の​人生に​つきものの​障害を​愚かにも​軽く​見たり、​う​ぬぼれに​負けたりしないよう、​くれぐれも​気を​つけてください。

​ 堕落した本性を​もつ​私たちは、​恩寵に​反抗し抵抗しが​ちだが、​驚くには​あたらない。​この​原罪が​残した​傷跡は、​自罪を​犯すたびに​炎症を​起こしてしまう。​このような​状態から​抜け出さなければなりません。​神的であると​同時に、​人間的な​日々の​努力を​続けて、​神への​愛を​表してください。​謙遜と​痛悔の​心で​神の​助けに​全幅の​信頼を​寄せ、​あたかも​すべては​自分​自身に​かかっているかのように​最善の​努力を​尽くすのです。

​  死の​間際まで​続く​この​戦いの​間、​内外の​敵が​激しく​攻撃を​仕掛けてくる​ことは​充分に​予想される。​それだけでも​まだ​足りないかのように、​時には​過去の​罪、​おそらくは​無数の​罪が​一度に​頭に​浮かんできて、​心を​滅入らせてしまうでしょう。​神の​名に​おいて​申します。​たとえ​そのような​時が​訪れても、​決して​絶望しては​なりません。​そういう​ことは、​必ず​起こる​わけでも、​起こるのが​普通であるわけでもありませんが、​万一そうなった​場合には、​主に​さらに​強く​一致する​機会だと​捉えましょう。​ご自分の​子供に​してくださった​主が、​あなたを​お見捨てに​なるはずが​ありません。​あなたが​より​深く​神を​愛し、​よりはっきりと​その​保護を​知る​ことができるように、​試みを​お許しに​なるだけなのです。

​ 元気を​出しなさい。​何度も​申しますが、​十字架上で​私たちを​お赦しに​なった​キリストは、​ゆる​しの​秘跡に​よって​今も​赦しを​与え続けておられます。​「たとえ罪を​犯しても、​御父のもとに​弁護者、​正しい方、​イエス・キリストが​おられます。​この​方こそ、​わたしたちの​罪、​いや、​わたしたちの​罪ばかりでなく、​全世界の​罪を​償う​生贄」​18と​なって​私たちに​勝利を​得させてくださいます。

​ 何が​起ころうとも​構わず​前進しなさい。​主の​腕に​しっかりと​掴まり、​神は​決して​戦いに​敗れない​ことを​考える。​理由が​なんであれ、​万一主から​離れてしまったのなら、​謙遜な心で​主のもとに​戻り、​再び​始めなさい。​毎日​あるいは​二十四時間中幾度も、​放蕩息子の​役柄を​演じるのです。​真に​神愛の​奇跡である​ゆる​しの​秘跡に​よって​心を​洗い​浄めなさい。​この​得も​言われぬ秘跡に​おいて、​神は​あなたの心を​清め、​戦いに​ひるむことの​ないよう、​また、​たとえ暗闇に​迷った​ときでも、​疲れに​負けず神に​立ち戻る​ために​必要な​喜びと​力を​十二分に​与えてくださいます。​そのうえ、​神の​御母で​あり​私たちの​母でもある​聖母が​母親特有の​優しい心であなたを​守り、​足下を​固めてくださいます。

神は​常に​赦しを​お与えに​なる

​ ​「神に​従う​人は​七度倒れ​(る)」​19と​聖書は​警告している。​この​言葉を​読むたびに、​強い愛と​苦痛を​感じ、​心は​激しく​震えます。​尽きる​ことの​ない​慈しみや​優しさ、​寛容に​ついて​語る​ため、​主は​再び​私たちに​会いに​来てくださったからです。​主は​私たちの​惨めさを​お望みには​ならないが、​私たちの​惨めな​状態に​ついては​ご存じです。​そして、​私たちを​聖人に​する​ために​その​弱さを​利用なさいます。

​ 愛の​震えと​申しました。​誠実に​自らの​生活を​省みる​とき、​私は​自分が、​何者でもなく、​何の​値打ちもなく、​何も​持たず、​何も​できない、​いや​それ以下、​つまり​無その​ものである​ことが​分かる。​しかし、​神は​すべてであります。​また、​神は​私の​神、​私は​神の​もの。​私を​お見捨てには​ならない​どころか、​私の​ために​ご自分を​死に​さえ渡されたのです。​これ以上の​愛を​考える​ことができるでしょうか。

​ 苦痛の​震えとも​申しました。​自分の​行いを​振り返ると、​山のように​積もった​怠りを​前に​唖然と​なってしまう。​朝起きてからの​二、​三時間を​糾明するだけでも、​忠実と​愛に​欠けた​ことがたくさん​見つかる。​自分の​行いを​見ると​本当に​情けなくなるが、​だからと​いって​平和を​失う​ことはない。​神のみ​前に​平伏して、​自分の​状態を​包み隠さず​お見せします。​すると、​すぐに​神が​近くに​おられる​ことを​確信し、​ゆっくりと​心の​中で​繰り返してくださる​神の​声が​聞こえてきます。​「あなたは​わたしの​もの」20。​お前が​どのような​者かは​知っていたし、​今も​知っている。​前進しなさい、と。

​ これ以外の​道は​ありません。​絶え間なく​主の​現存を​保つなら、​神は​常に​呼びかけ、​愛を​示し続けてくださっている​ことが​分かり、​信頼は​いや増す​ことでしょう。​神は​うんざりして​愛せなくなる​ことがない。​希望の​徳が​あれば、​神の​助けが​ないと、​ほんの​小さな​義務を​果たす​ことさえできない​ことが​分かる。​神と​一緒で​あれば、​恩寵の​力に​よって​傷は​すぐに​癒される。​敵の​攻撃に​反撃を​加える​ために​神の​力を​身に​まとえるでしょう。​簡単に​言うなら、​自分が​泥で​できている​ことを​自覚する​ことが、​キリスト・イエスヘの​希望を​特に​強めるのに​役立つと​いう​ことなのです。

新約聖書の​登場人物と​頻繁に​付き合ってください。​聖書に​あらわれる​感動的な​場面の​数々を​黙想しましょう。​主が​神と​しての​権威と​人間味溢れた​仕草を​お示しになる​場面、​あるいは、​人間的であると​共に​神的な​言葉遣いで​お話しに​なる​あの​荘厳な​赦しの​物語、​子供たちへの​疲れを​知らぬ愛の​話など。​あたかも​天国を​地上に​引き降ろしたような​それらの​場面は、​今も​福音書の​なかで​時間を​超えて​新鮮さを​保っています。​神の​保護を​感じて、​手で​触れる​ことができる​ほどです。​躓きを​ものとも​せずに​前進する​とき、​また、​転ぶたびに​起き​上がっては​やり直し、​神に​希望を​託しつつ内的生活を​続ける​ならば、​神の​ご保護を​感じとれないはずは​ありません。

​ 内外の​障害を​克服すべく​熱心に​戦う​意欲を​もたなければ、​賞を​獲得する​ことは​できません。​「『競技に​参加する​者は、​規則に​従って​競技を​しないならば、​栄冠を​受ける​ことができない』21。​また、​相手が​いなければ、​真の​戦いには​ならない。​それゆえ、​敵が​いないなら、​勝利の​冠も​得られない。​敗者の​いない​ところに、​勝利者が​いるは​ずが​ないからである」22。

​ 困難が​あっても​意気消沈する​ことなく、​かえって​それを​活用し、​キリスト者と​して​成長する​ための​刺激に​変えなければなりません。​戦えばこそ​聖化は​実現し、​使徒職は​一層の​効果を​上げるからです。​まず、​ゲッセマニの​園で、​続いて、​嘲りの​的と​なり、​孤独の​うちに​十字架に​かかった​イエス・キリスト、​その​キリストは​受難の​巨大な​重みを​感じながらも、​御父のみ​旨を​受け入れ、​愛されました。​このような​イエス・キリストを​黙想するに​つけ、​私たちは​キリストに​倣い、​キリストの​よい​弟子に​なる​ために、​主の​勧めを​心から​受け入れる​必要の​ある​ことが​よく​分かってきます。​「わたしに​ついて​来たい者は、​自分を​捨て、​自分の​十字架を​背負って、​わたしに​従いなさい」23。​そこで、​私は​好んで​イエスに​お願いします、​「主よ、​一日たりとも​十字架の​ない​日が​ありませんように」。​こうして、​神の​恩寵を​受けて​性格は​強められ、​惨めな​点が​多いにも​かかわらず、​神の​支えにまでなる​ことができるのです。

​ よく​考えて​ごらんなさい。​壁にくぎを​打ちつけても、​手応えが​なければ​何も​吊すことができません。​神の​助けに​すがって​犠牲を​捧げ、​自らを​鍛えなければ、​神に​役立つよい​道具に​なる​ことは​できないのです。​神の​愛の​ために​喜んで​艱難辛苦を​活用する​決心さえ​すれば、​困難や​不快な​こと、​煩わしく​辛い​ことなどを​問題に​せずに、​使徒聖ヤコブ、​聖ヨハネと​同じように、​「できます」​24と​叫ぶことも​できるでしょう。

大切な​こと、​それは​戦い  

​私たちの​平安を​奪い​去る​ために​悪魔が​好んで​用いる​策略に​ついて、​注意を​促して​おきたいと​思います。​悪魔は​休暇を​取らない​ことを​忘れないでください。​前進する​どころか​嘆かわしくも​後退しているのではないか、​自己改善の​努力にも​かかわらず​悪くなる​一方ではないのか、​誘惑に​襲われて、​このように​考えてしまう​ときが​あるかもしれません。​しかし、​心配しないでください。​たいていは、​錯覚に​すぎませんから、​すぐに​追い​払えば​いいのです。​このような​場合、​魂は​以前にも​増して​細やかに、​良心は​鋭く、​愛は​さらに​自らに​厳しくなっているのです。​ひょっと​すると、​恩寵の​働きが​一層強くなり、​それまで​暗闇の​中で​気づかなかった​数​多くの​細かな​点に​光を​当てているのかもしれません。​いずれに​せよ、​不安の​原因は​糾明する​必要が​あります。​私た​ちがさらに​謙遜に​なり寛大に​なるよう、​主が​光を​与えて​照らし出してくださっている​ときだからです。​神は​摂理に​よって、​私たち子供を​成長させる​ために、​休みなく、​寛大な​心で​導き、​助けの​手を​差し​伸べ、​大小の​奇跡を​してくださるのです。

​ ​「この​世に​いる​ことは​人に​とって​兵役であり、​その​日々は​日雇いの​日々の​ようだ」​25。​この​法則を​免れている​人は​いません。​そんな​ことは​知りたくもないと​思う​怠け者も、​また​キリストの​軍隊から​脱走して​他の​戦いに​加わり、​怠け心や​虚栄心、​卑しい​野心を​満足させようと​奔走する​人々、​言い​換えれば、​自己の​欲望の​奴隷と​なった​人々で​さえ、​この​法則から​逃れる​ことは​できないのです。

​ 戦いが​人間に​つきものであるなら、​是が​非でも​義務を​果た​したい​ものです。​自ら​望み、​正しい​意向を​もって、​神が​お望みに​なる​ことを​探し求め、​祈り、​そして​働くのです。​こうして、​神を​求める​心は​満たされますから、​一日を​終えるに​あたり、​走るべき道程が​長いことに​気づいても、​聖性に​向かって​小止みなく​歩み続ける​ことができるでしょう。

​ ​「我、​仕えん」。​毎朝​この​言葉で​決意を​新たに​してください。​譲歩は​すまい、​怠惰や​物臭に​足を​すく​われまい、​希望に​満ちて​楽観的な心で​日々の​義務を​しっかり​果た​そう。​こうして、​小競り合いに​敗れる​ことが​あっても、​信実の​愛徳唱を​唱えるなら​失敗を​克服できると​確信しましょう。

希望の​徳、​それは​全能の​神が​摂理を​もって​私たちを​導き、​必要な​手段を​お与えに​なる​ことを​確信する​ことです。​希望の​徳が​あれば、​神が​絶えず優しく​接してくださる​ことも​分かるでしょう。​主は​聞いてあげようと​常に​待ちかまえておられ、​決してお疲れに​なりません。​あなたの​喜びと​成功、​愛と​困難、​苦しみと​失敗の​一つ​ひとつが​主の​関心の​的なのです。​ですから、​つまずいた​時だけ主に​望みを​かけるような​ことを​せず、​順境に​あっても​逆境に​あっても、​天の​御父のもとに​駆け寄って、​主の​慈しみ深い​保護に​すべてを​委ねてください。​無に​等しい​自分を​知れば、​つまり、​少しでも​謙遜に​なれば、​無数の​零の​集まりである​自分の​姿を​簡単に​認める​ことができ、​やがては​不落の​砦のような​堅固さを​身に​つける​ことでしょう。​私と​いう​無数の​零の​左に​キリストが​いてくだされば、​巨大な​数字に​なるからです。​「主は​わたしの​命の​砦、​わたしは​誰の​前に​おのの​くことがあろう」26。

​ すべての​ものの​裏に​神の​助けを​見てとってください。​常に​私たちを​見つめ、​守っていてくださいます。​また​当然ながら、​この​世で​自分に​与えられた​場を​捨てる​ことなく、​忠実に​主に​付き従えと​要求されている​ことを​知って​欲しいのです。​付き添ってくださる​神を​見失わないためにも、​戦いを​軽んじる​ことなく​注意深く​警戒して​進まねばなりません。

戦うと​言っても、​神の​子が​痛ましい​放棄や​暗澹とした​諦めに​圧倒され、​喜びを​失うような​ことは​ありません。​戦いとは​愛に​酔った​人の​行動、​仕事であれ休息であれ、​楽しむときであれ苦しむときであれ、​常に​愛する​者の​ことを​考え、​その​人の​ためなら​何が​起ころうと​喜んで​対処する​態度の​ことです。​重ねて​申しますが、​神が​戦いに​敗れる​ことは​決してありませんから、​神から​離れない​限り、​常に​勝利を​得る​ことができます。​神の​要求を​忠実に​果たすなら、​次のような​経験が​できます。​「主は​わたしを​青草の​原に​休ませ、​憩いの​水の​ほとりに​伴い、​魂を​生き返らせてくださる。​主は​御名に​ふさわ​しく、​わたしを​正しい​道に​導かれる。​死の​陰の​谷を​行く​ときも、​わたしは​災いを​恐れない。​あなたが​わたしと​共に​いてくださる。​あなたの鞭、​あなたの杖、​それが​わたしを​力づける」27。

​ 心戦の​兵法に​よれば、​大切なのは、​時間であり、​適切な​手を​うつ忍耐と​粘り強さです。​望徳唱を​頻繁に​繰り返してください。​気づか​ぬ程度にまで​神が​手加減してくだされば​ありが​たいのだが、​内的生活には​失敗も​あれば​好不調の​波も​ある。​種々の​災難から​免れている​人などいません。​ところで、​全能で​慈しみ深い主は、​困難に​打ち​勝つために​有効な​手段を​お与えに​なりました。​すでに​お話ししたように、​必要なら​何度でも、​瞬間毎に​も、​やり直す​決意さえ​あれば、​手段を​用いるだけで​充分に​打ち​勝つことができます。

​ 小心に​陥らないよう​注意して、​毎週、​必要な​ときは​いつでも、​悔い​改めの​聖なる​秘跡、​神の​ゆる​しの​秘跡に​あずかってください。​恩寵を​身に​まとっているなら、​歩みを​止める​ことなく​山々の​間を​行き28、​キリスト者の​義務と​いう​坂を​上って​行くのです。​与えられた​手段を​進んで​活用し、​主に​希望の​徳を​増してくださる​よう​お願い​するなら、​神の​子である​ことを​知る​者の​喜びに​満ちて、​人々に​喜びを​<感​染>させる​ことができるでしょう。​「神が​わたしたちの​味方である​ならば、​だれが​わたしたちに​敵対できますか」29。​と​いうわけで、​楽天的に​なる​ほか​ありません。​希望の​力に​満たされると、​憎しみを​播く​人た​ちがばら撒いた​汚れを​消し去る​ために​休みなく​戦います。​すると、​世界の​歓喜を​再発見できる。​世界は​神の​手から​生まれた​汚れなく​美しい​ものですから、​痛悔の​心を​もつことができれば、​世界に​元々の​美しさを​取り戻して​神に​お返しする​ことができるでしょう。

天を​見つめながら

​ 希望の​徳に​成長し、​「望んでいる​事柄を​確信し、​見えない​事実を​確認する」​30と​いう​信仰を​土台に​して​しっかりと​立ちましょう。​この​徳に​成長するとは、​愛を​増してくださいとお願い​する​ことです。​なぜなら、​全力を​尽くして​愛する​者しか、​全幅の​信頼を​置く​ことは​できないからです。​主は​お愛しする​値打ちの​ある​御方です。​愛に​酔った​人は、​愛する​ものと​心臓の​鼓動を​同じに​する​ほど​見事に​一致するので、​安心して​自らを​捧げると​いう​ことは、​私と​同じように​皆さんもすでに​経験された​ことでしょう。​ところで、​相手が​愛その​ものである​神なら​どうなるでしょう。​キリストは​私たち一人​ひとりの​ために​死んでくださった​ことがまだ​分からないのですか。​このように​惨めで​卑しい​私たちを​救う​ために、​イエスは​贖いの​犠牲を​捧げてくださったのです。

​ ご死去と​ご復活を​通して​得てくださった​褒賞に​ついて、​主は​しばしば​お話しに​なりました。​「わたしの​父の​家には​住む所が​たくさん​ある。​もしなければ、​あなたが​たの​ために​場所を​用意しに​行くと​言ったであろうか。​行ってあなたが​たの​ために​場所を​用意したら、​戻って​来て、​あなたが​たを​わたしのもとに​迎える」31。​天国は​地上の​歩みの​終着点です。​イエス・キリストは​先に​そこへ​行かれ、​私が​心から​愛する​聖母マリアと​聖ヨセフ、​天使たちと​諸聖人に​伴われて​私たちを​待っていてくださいます。

​ 使徒の​時代から​現在に​至るまで、​いつの​時代にも​異端者が​現れ、​キリスト者から​この​希望を​奪い去ろうと​試みました。​「キリストは​死者の​中から​復活した、と​宣べ伝えられているのに、​あなたが​たの中の​ある​者が、​死者の​復活などない、と​言っているのは​どういうわけですか。​死者の​復活が​なければ、​キリストも​復活しなかったはずです。​そして、​キリストが​復活しなかったのなら、​わたしたちの​宣教は​無駄であるし、​あなたが​たの​信仰も​無駄です」32。​イエスは​道であり、​真理であり、​命ですから​33、​私たちの​歩む道は​神の​道です。​この​道を​神から​離れずに​歩む限り、​必ず​永遠の​幸福を​得る​ことができるのです。

「忠実な​良い​僕だ。​よく​やった。​お前は​少しの​ものに​忠実であったから、​多くの​ものを​管理させよう。​主人と​一緒に​喜んでくれ」34。​御父から​このように​言っていただけたなら、​どんなに​幸せでしょう。​必ずこう​言っていただけると​いう​希望を​もちましょう。​これが​観想生活の​素晴らしさです。​信仰と​希望と​愛に​生きましょう。​希望は​私たちを​強めます。​聖ヨハネの​言葉を​思い出してください。​「若者たちよ、​わたしが​あなたが​たに​書いているのは、​あなたが​たが​強く、​神の​言葉が​あなたが​たの内に​いつも​あり、​あなたが​たが​悪い者に​打ち​勝ったからである」35。​神は​教会に​属する​若者たちだけでなく、​全世界の​青年たちを​激励しておいでになる。​触れる​ものを​次から​次へと​黄金に​変えた​ミダ王のように、​皆さんも​すべての​人間的な​ものを​神化する​ことができるのです。

​ この​世を​去った​あと​神の​愛が​待ちかまえていてくださる​ことを、​決して​忘れないでください。​この​神の​中に、​地上で​持った​清い愛を​こと​ごとく​見つける​ことができるでしょう。​短い​一生を、​一所懸命働いて、​御独り子のように​「善を​なしつつ」​36過ごすこと、​これが​主の​お望みです。​生きている​間、​目覚めて​警戒していなければなりません。​殉教を​目前に​した​アンティオキアの​聖イグナチオが​魂に​感じた​あの​呼びかけを​聞く​ために。​「御父のもとに​来るが​よい」37。​おまえを​一日​千秋の​思いで​待っているから。

​ ​私たちの​希望・聖母マリアに、​私たちが​揃って​御父の​お住まいに​居を​定める​ことができるよう助けてくださいと​申し上げましょう。​真の​祖国への​希望を​支えに​するなら、​何が​起こっても​平和を​失う​ことは​ありえません。​主は​恩寵に​よって​私たちを​導き、​順風を​送って、​くっきりと​見える​向こう岸に​船を​押し進めてくださるでしょう。

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